1. 忘れていたもの

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 数時間かけて、私は論文の中間発表で使用する原稿を完成させた。伸びをしながら壁に掛けられた時計を見る。まだ眠るには、やや早い時間だ。  少し考えた後、私は立ち上がり、押し入れの扉を開けて古いノートパソコンを取り出した。昔、小説を書く際に使用していたものだ。薄く積もった埃をあらかたゴミ箱に落としてから、電源を入れてボタンを押す。懐かしい起動音がなる。この音を聞くのも随分久しぶりだ。  デスクトップに隠した秘密のフォルダを開くと、見覚えのあるタイトルがずらりと並ぶ。それを、私は一つずつ読み始めた。  何年も前に書いた、プロットや全体の構成はおろか、(えが)くジャンルすら定まっていない自分の古く拙い文章は、精神的にクるものがある。登場人物の会話が始まれば情景描写が薄くなりがちなのも、この頃からの悪い癖だ。  読み進める度に懐かしさと恥ずかしさが、書いていた当時の思い出と同時に込み上げてくる。だから、読み進めるには、定期的にベッドに避難して枕に顔を(うず)めて、小さな声で叫ぶ必要があった。  机とベッドを何往復したか分からなくなった頃、私は一つだけタイトルがつけられていない小説がある事に気付いた。不思議に思いながらそれをクリックする。そこには、私も忘れていた書きかけの小説があり、『彼ら』は作者が帰ってくるのを、ずっと密かに待ち続けていた。
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