夢の国

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 健一の私へ触れ方は、卓のそれとは違う。健一の手のひらは、卓よりも力強く私の肌を辿っていく。息づかいの粗さも、揺さぶり方も、何もかもが違う。  健一と関係を持ったばかりの頃はその違いに戸惑いを覚えていたが、次第にその境界線は曖昧になり、私はただ目の前にある体温にしがみつく。 「あっちー……」  設置されたエアコンが乾いた風を生み出している。  行為を終えると、健一は慣れた足取りでキッチンまで歩き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。 「沙樹も飲む?」  私はベッドに横たわったまま、健一から飲みかけのペットボトルを受け取った。つい先ほどまで盛り上がった熱は、飲み込んだ水温によって冷えていく。 「そういえば沙樹、エントリーシートどうなった?」 「書くだけ書いた。今添削中」 「まじかー……。俺もそろそろちゃんとしねーとなぁ」  再び健一が布団に入り込んだ事で、ベッドが軋みを立てた。このベッドを許したのは卓と健一だけだ。  狭いシングルベッドに二人で並びながら、他愛のない話をしている時間が私を救う。就活をするまでは茶髪だったという健一の雰囲気は、卓とはまるで違う。それでも、目の前にある熱を欲する私は、健一の体温を浸透させるように、卓よりも大きな身体に抱きついたまま、眠りに就く。  無事に大学四年生に進級した四月、卓からの朗報が入った。四月中旬の週末に会いに来てくれる事になったのだ。 「むしろ、なんでゴールデンウィークじゃねーんだよ」  卓との約束の前日である金曜日の午後。大学のカフェテラスで、開いたタブレットの液晶画面を指でスクロールしながら健一は笑う。 「五月の連休は忙しいみたい」 「おまえの彼氏って営業だったよな? 顧客相手のために連休潰すほどワーカホリックなの?」  一か月前の風の冷たさが嘘のように、カフェテリアにある大きな窓からは春の日差しがやわらかく差し込み、近くの大きなテーブルでは入学したばかりの一年生達が集まって何かを調べているようだ。大学の最高学年に到達してしまった私は、この三年間で失ったものは何なんだろうと考える。  無垢さ、純真さ、初々しさ。武器にしなくともそれらを惜しみなくまとっていた三年前、私は卓に出会った。 「詳しい事は分からないけど。あんまり仕事の話はしてくれないし」  毎日の電話は難しくても、週に一、二回電話をする卓は、あまり自分の話をしない。大変な事も多いだろうに、いつも私の話を引き出して、笑って、そして会話は終わりを迎える。  遠距離恋愛にとってスパイスだったものもいつからかマンネリ化し、声を聞けば聞くほど寂しさは膨らんでいった。 「彼氏も浮気してたりして」 「つまんない冗談言ってないで、早く調べものしようよ」  就職活動で同じ分野を目指している健一とは、こうして情報交換をしているうちに親しくなった。  健一と一緒にいると救われる。今となればほとんど共通の話題もなくなってきた卓よりも、健一と一緒に過ごしている方がずっと楽だ。頭では分かっているのに、私は今この時でも卓のかけらを探している。  明日には卓に会える。その事実に心が酔っていく。 「沙樹、スマホ鳴ってね?」  健一に言われて手に取ったスマートフォンには、卓からのメッセージが届いていた。心臓の奥が熱を持って跳ねた。  ――仕事直帰できたから、今夜そっちに行こうと思うけど、どうかな?  ふわふわとした心地から一転、卓からの更なる朗報に鼓動が波打つ。私は卓を好きだ。降り積もった寂しさが溢れてしまうくらい、好きだ。  タブレットを閉じて資料をトートバッグに片付け始めた私に、健一が「え?」と小さく声をあげた。 「もう帰るのか?」 「卓がこっちに来るって」 「それって明日だったよな?」  健一の強い眼差しを受けて、私は今夜健一と過ごす約束をしていた事を思い出した。胸の奥で罪悪感と恋情がせめぎ合う。目の前にいる健一の眼差しが痛い。でも今は、卓から届いたメッセージだけを抱きしめたい。 「今夜になったって、今連絡がきたんだよ。私、帰らなきゃ」 「なんだ、それ……」  健一の日に焼けた頬が夕方の日差しに照らされている。そのせいか、いつもよりもずっと健一の表情が見えてしまったようで、私は肩にかけたトートバッグの紐をぎゅっと握った。 「おまえ、絶対ろくな目に遭わねーよ」  健一のお決まりのセリフが、押し隠した罪悪感をちくちくと刺した。  卓はスーツ姿のままやって来た。手荷物は通勤バッグと大きなトートバッグだけのようだ。聞けば、トートバッグは駅のロッカーに入れておいたのだという。 「沙樹に会えるか微妙なところだったから、連絡がギリギリになってしまってごめんね。用事はなかった?」  私の隣を歩きながら卓が言い、私は首を横に振った。会うのは三か月ぶりだった。もうコートは必要なく、私はおろしたての春用のジャケットを羽織っている。スーツの似合う卓に似合っているだろうか。心がそわそわと落ち着かない。 「卓のスーツ姿、久しぶりに見た」 「そうだっけ?」 「前に見たの、卓が就活していた時だもん」  それから駅近くの居酒屋で食事を済まし、卓は私の家にやって来た。夕方に一度帰宅した後で掃除をしたので、不自然なものは何一つないはずだ。  沙樹、と名前を呼ばれ、振り返った拍子でキスを落とされた。ジャケットとニットを脱がされ、ゆっくりとベッドに押し倒される。  私は卓に縋りつく事によって、卓の存在を指先に馴染ませていく。卓の体温、卓の感触、卓の形を。  四月の夜はまだ肌寒い。卓がシャワーを浴びる音を聴きながら行為の気配の残るベッドの上で寝転がっている時、すぐ近くでバイブ音が鳴った。テーブルに置いてある二つのスマホ。私のスマホが鳴ったのかと思ったら、違ったみたいだ。シリコン地のスマホケースに入れられたスマホは卓のもので、私は何気なく手に取った。  手のひらに乗った重みと共に、違和感を覚えた。通知内容はニュースアプリで問題ない。そんな事よりも。 「沙樹?」  いつの間にかリビングには卓が立っていて、私は慌ててスマホをテーブルに置いた。 「使ったタオル、洗濯機に置いといたけど。……何かあった?」  私はベッドに座り直して、なんでもない、と曖昧に笑う。  この狭いワンルームで、卓はどこか所在なさそうに動いている。私がだるさの残る身体を動かして、キッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、卓はありがとう、と笑った。  壁にかけられた時計の秒針が、やけにうるさい。 「卓」  カーペットに座ってスマホを触り出した卓に、私は意を決して言う。 「待ち受け画面、変えたんだね」  先ほどの違和感の正体。  一年前に行った夢の国、二人で自撮りした写真を、二人でスマホのスリープ画面の待ち受けに設定した。夢の続きに位置するようなホテルの部屋で、この写真があれば頑張れるね、とじゃれ合った。  でも、さっき見た卓のスマホの画面は全く別のものだった。 「あー……、そういえば、そうだったかも」  ペットボトルに口をつけて水を飲む卓は、曖昧な返答を口にする。  卓はペットボトルに直接口を付けて飲むような人だっただろうか。私は着ているスウェットの裾をぎゅっと握った。セックスの最中の仕草は、声は、会話はどうだっただろうか。  沙樹が好きだよ、と卓は言った。一番好きだよ、とも。今までにそんな甘い言葉を囁くような事はあっただろうか。  違和感の原因は、他の男を間に挟んでしまった自分の落ち度か、それとも。  沙樹、と低い声で呼ばれ、指先が震えた。カフェテリアでの健一の冗談が、脳内で何度も再生される。――彼氏も浮気してたりして。 「俺は、何かを疑われているのかな?」  健一のものよりも長い、まだ濡れている前髪を掻き上げながら、卓は言う。  執拗に他人を疑うのは、たいてい自分にやましさがある時なのだと何かで読んだ。  行動の起源は感情の連鎖によるものだ。膨張した寂しさによって間違いを犯し、影を潜めようとする罪悪感が更なる嘘を重ねていく。自分の心だけで完結するものだと思っていた。  再びバイブ音が鳴った。健一からの連絡はミュートモードにしてあるから、卓に見られる事はないはずなのに、積み重ねていた嘘が崩れてしまいそうな感覚にとらわれる。  だって、目の前にいる卓は、私のよく知る卓じゃないみたいだ。二人で過ごした夢の国。先のない未来がカラフルな景色を覆うように降り積もっていく。  それでも、私は卓が好きだ。どうしようもないくらいに。 「ところで、沙樹はどうなの?」  様々な感情を降り積もらせた結果、横たわっているのは裏切りだけだった。焦っているはずのに、脳内はやけに静かで、虚ろだ。何の言い訳もできない。  テーブルに置かれたペットボトルの水が、ゆらりと揺れた気がした。
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