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薄い壁の向こうから響くシャワーの音だけが、狭い部屋にぽっかりと浮かんでいる。学生用のワンルームマンションの一室。ベッドとテレビ台の間に置かれたローテーブルの上でスマートフォンがバイブ音を鳴らし、私はおもむろに手に取った。
「もしもし」
表示された名前を見て打ち震えた感情を、声に精一杯乗せる。
『もしもし、沙樹。元気か?』
スピーカー越しの恋人の声が優しく鼓膜に触れ、淡い感情が私の心を包んだ。
「うん、元気。卓は?」
『俺も元気にやってるよ』
大学に入ってすぐに出会った二歳年上の卓は、約一年前から就職によって離れた地域で暮らしている。いわゆる遠距離恋愛、こうして現代機器に頼る事で繋いでいる関係だ。
前回に会えたのは正月休みの二日間だけだった。今は二月。まだ一か月と少ししか経っていないのに、卓の声は私に寂しさの存在を強く示す。
シャワーの音が止み、途端に部屋に静寂さが押し寄せてきた。その分、スピーカーの向こうにいる卓の気配がより近く感じられるのに、心に空いた穴は塞がらないまま、冷たい風が吹き抜けていくようだ。
私はカーペットの上で膝を抱え直して、スマホをぎゅっと握った。
「卓。私、今ちょっとレポートに追われてて。また明日かけてもいい?」
『あー……、明日は仕事が遅くなるかも。お互い無理のない時に話そう』
申し訳なさそうな声で答える卓に対してわずかな罪悪感が生まれ、それを打ち消すように、ごめんね、と私はワントーン高い声でつぶやき、通話を切った。
見計らったようなタイミングで、部屋のドアが開く。
「電話してたのか?」
ピンク色のタオルで髪をがしがしと拭きながら入ってきたのは、同じ大学に通う健一だ。
「うん、彼氏と」
「おまえ、相変わらずだな」
ふっと笑った健一は、部屋の壁際に置かれたベッドにどさりと座った。卓と話した時とは違う、これからの時間を示す沈黙がしくしくと肌を刺す。顔を上げると健一の形のいい瞳と目が合い、喉の奥が熱くなる。彷徨っていた寂しさが影を潜めていく。
「沙樹」
名前を呼ばれ、催眠術にかけられたように健一に手を引かれ、私もベッドに座った。上半身だけねじって向かい合い、頬を撫でられる。シャワーを浴びたばかりの健一の手は熱くて湿っぽい。
「おまえ、絶対ろくな目に遭わねーぞ」
笑いながらつぶやかれた言葉に肯定を示すように、私は健一の首に腕をまわした。
卓の就職先は、新幹線に乗らなければすぐには会えない距離にあった。それを知った一年半前の秋、世界に終わりを告げられたような衝撃に襲われた。
半年後に訪れるであろう現実を受け入れられずに泣きわめいた私に対し、卓はごめんな、と繰り返した。
――ごめんな、沙樹。俺、できるだけこっちに帰って来るから
――できるだけって、どのくらい?
――少なくとも月に一度は、帰ってくるよ。電話もする。毎日しよう
優しい卓は、子供のように泣き続ける私を抱きしめながらそう言ってくれた。そして、卓は友人との卒業旅行を断り、代わりに私との時間を優先してくれた。
卓と離れる直前に、夢の国とも呼ばれるテーマパークに行った。まだ寒さの残る春先、青い空の下に潮風が吹いていた。カラフルな空間で目一杯はしゃいで、たくさんのアトラクションに並び、夜にはパレードを眺めた。キャラクターの耳をモチーフにしたカチューシャを付けて撮った二人の写真は、スマートフォンのスリープ画面に設定した。
卓が予約してくれたオフィシャルホテルで過ごした夜は、ワンルームマンションで過ごした日々よりもずっと甘さを凝縮したような時間だった。
その一日はきっと離れた後の二人を救ってくれる。そう思えたはずだった。
しかし、魔法は長くは続かなかった。抱きしめ合いながら交わした約束は果たされず、卓は月に一度帰って来ることはなかったし、電話も毎日することはできなかった。日曜日は研修だから、夜は接待だから。そういった言い訳のメールは何通届いただろうか。
夢の国で得た魔法は少しずつ効力を失っていき、代わりに訪れたのは寂しさだった。
友人達と過ごしている時間はまだよかった。だけど、一人で通学している最中、カフェテリアでキーボードを叩いている時、眠りに就こうと寝返りを打った瞬間、卓が近くにいない現実が私の首を絞め、その度に私は涙ぐんだ。
好きという気持ちが降り積もるほど、寂しさが溢れて止まらない。
そんな精神状態でスタートした就職活動、同じ大学に通う健一と知り合ったのはそんな時だった。
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