魔法使いと2人の少女

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誰の記憶にも残らない今日だからこそ、堂々と前を向いて歩いてみた。いつもは猫背で視線は地面に向けて、早足で歩き人を避けていた。誰かと目が合ったら酷い目にあいそうで、暗い顔を見られたら嫌味を言われそうで、すれ違う人達の顔を一切見ることができなかったのだ。 カラオケまでの道のりをゆっくりと2人で歩いて行く。いつもの何倍も遅いスピード。足幅は狭く、足裏と地面の接する時間は長い。あんまり早いと沙羅さんの息が苦しくなってしまうので、彼女のペースに合わせて歩いているのだ。さっきまで随分後ろにいた人が私達を通り越して進む。どんどん離れていき後ろ姿は小さくなってやがて見えなくなる。 「ごめんね、あたしがのろまで疲れるでしょ?」 首を激しく横に振り、沙羅さんの労いの言葉を精一杯否定した。 「そんなことないです。私もあんな風に早く歩いていたんだなって自覚しました。何だか生き急いでいいるみたい。それにこんなにゆっくり周りを見ながら歩くの、久しぶりなんです」 私がまだ幼くてお母さんが生きていた時、たまに散歩へ出かけてこうして色んな景色を見ながら歩いた。夕方に空の色が赤やオレンジや茶色や紫に変わっていくのが面白くてずっと眺めていたけど、そのうち灰色の雲が流れてきて土砂降りになって、2人でずぶ濡れになりながら家まで走ったっけ。 「あたしもね、こんなにゆっくり歩くのは小さい頃カタツムリと競争した時以来だよ。今やったら絶対負けるね」 自動販売機でペットボトルの水を購入してひと休みする。まだレストランからそんなに歩いていないが、沙羅さんは辛そうだった。水を少しづつ口に含んで飲む。 「来る時はこんなんじゃなかったんだけどな。はしゃぎ過ぎたかも」 私に会うために、家からレストランまでこうして体を引きずるように歩いてきたのかと思うと、胸が張り裂けそうだった。 「カラオケ、無理しない方がいいんじゃないですか?」 「それはだめ。今日逃したら次がないんだもん。田舎って嫌だね、カラオケに辿り着くまで遠いし交通も不便だし。東京ならちょっと歩けば色んな店があるでしょ?」 もう一度行きたかったなぁと自動販売機に寄りかかりながら呟いた。私は東京には行ったことがないけど、テレビで観たことはある。人が溢れて騒がしくて、絶対に行きたくないと思った。私には人が少なくて静かな田舎が向いている。 「青葉ちゃんがあたしになる前に、行きたい場所をピックアップしておいた方がいいよ。全部忘れたら今まで行っていた場所に行けなくなるんだから」 「行きたい場所.........」 「どこかあるでしょ?」 本屋、ファストフード店、ペットショップ、映画館はきっと記憶をなくしても足を運ぶ機会は来ると思う。二度と行けない場所は、1つだけ思い浮かんだ。 お母さんのお墓。毎月欠かさずお墓参りに行っていたけど、もう行けなくなるどころか思い出すこともなくなる。当たり前なことなのに、ひどく寂しくなった。新しい人生の面接を受けに来た時点で親不孝な娘。人生を変えたら取り返しがつかない、今更になって少しだけ足がすくんだ。 沙羅さんは私の心情を察したのか、それ以上何も聞かず「そろそろ再出発しようか」と言ってまたゆっくり歩き出した。
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