僕の王子様

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「お疲れ様でーす」 「お疲れ様」  僕がまた、ため息交じりにロッカールームで着替えていたら、シフトインしに来たアルバイト君、風間と一緒になった。明るくて気の利く彼は、すでに会員さんの覚えもめでたく、勤務程度も良好で、久々にいいメンバーを得たなと思う。 「仕事、慣れたか?」 「皆さん親切に教えてくれるんで、結構大丈夫です」 「そうか。筋トレしたいんだって?」 「そうなんです。通いのインストラクタさんに、この間ちょっと見てもらえて」 「うん、らしいな。あの人教えたがりだし」  時給も高くなくて、シフトの融通もそんなに利かないこのバイトを選ぶのは、たいていがスポーツやトレーニングに興味がある人間だ。そういうやつのほとんどは、費用を掛けずに筋トレができる環境を利用したい。中には弁えろよと窘めないといけないほど、会員のように使いたがるのもいるけれど、風間はその辺は問題ないようだ。  何人かいる外部のインストラクタで、風間に自重トレーニングをちょっと教えたという話は聞いている。彼女は風間を甚く褒めていた。飲み込みの早い、素直な生徒はインストラクタにとっては非常にかわいいものなのだ。ましてや風間は、雑誌に載ってそうな、爽やかな好青年だ。  僕はロッカーの扉の内側に貼ってある小さな鏡でネクタイを確認し、荷物を出して風間を振り返る。 「ちょっと出かけてくるから、あとよろしくね」 「はーい。本部ですか?」 「え?……桂だけど」 「ですか~。藤田マネージャーさんによろしくお伝えくださいね」 「……なんで?」 「研修でお世話になったので!あれ?藤田マネージャー、桂店じゃなかったですっけ」 「桂、だよ」  僕は動揺した。スタッフは全員、桂店に僕がフィジカルトレーニングの手伝いに行っていることを知っている。風間も誰かに聞いたんだろう。だから、藤田さんの名前が出たって不思議はない。  彼はユニフォーム姿になってロッカーを閉め、くるりとこちらを向いた。爽やかで明るい笑顔を見せると、いってらっしゃい、と僕を送り出した。僕は曖昧に返事をし、フラフラと店の外に出る。一気に蒸し暑さに襲われて、なけなしの気力を奪われていく。  いつもは向こうの店が閉まる時間を指定して呼ばれるけれど、今日はまだ四時過ぎだ。そもそも、今日は桂店には行かない。ホテルで待ち合わせて、することをして、僕はもう一度店に戻って仕事を片付けるし、彼は家族の待つ家に帰る。  久々に外で会った藤田さんと、食事をすることもなく、ただ身体を繋げる。あの狭い事務所での行為と同じように、性急で強引で、だけど間違いなく気持ちいい、僕には必要な行為だった。  それから数日後、ずっと誘いに応じていなかった会員の人に、あろうことか会員用の大きなロッカールームで呼び止められて次の約束を迫られた。  会員は運動の前にここで着替えて荷物を置いて、運動が終わればほとんどの人が風呂を利用するけれど、その場合もこのロッカーフロアを通り抜けて浴場へ行く。つまり、もの凄く人が多い。僕は焦って、その人を見おろして、小声でやめてくださいよと言った。 「こんなところで……困ります」 「でもさ、小阪君。俺と全然会ってくれないじゃない」 「……仕事が忙しくて、すみません」 「今日は?」 「えっと……すごく遅くなるので……」 「小阪さーん」  断り文句を探してしどろもどろになっていたら、風間が困った顔で、少し離れたところから僕を呼んだ。心臓が止まるかと思った。 「……!な、に」 「すみません、あとでちょっといいです?」 「ああ……今、行く。すみません、失礼します」  そもそも、この会員の男とは一度しか寝てない。それも、出かけた先で偶然会って、強引に飲みにつれていかれて、酔った勢いで、というやつだ。セックス自体は何の変哲もなかったように記憶している。だから、会員と関係するリスクを冒すほどの相手ではないし、連絡先も教えていない。一度寝たくらいで恋人面するなよと言いたいけれど、彼に騒がれて不利なのは僕だ。丁重に、念入りに、辛抱強く、諦めてもらうほかはない。  僕は彼に軽く会釈をして、モップがどうこうと言っている風間の元へ近寄った。ロッカールームと浴場付近は素足で歩く人が多いので、スタッフは手が空いたらマメに床を掃除するようにしている。まだまだ新人の風間にできる仕事は少ないので、彼はこういう雑務をよくやっている。 「下の階にあるだろう」 「ありがとうございます。俺、下探してきます」 「そうして」 「あと、俺、今日クローズなんです。今からやっとくことありますか?」 「……いや。クローズって言ってもほとんど僕がやるし」 「ですか~。了解でーす」  平日であれば営業時間は二十三時までで、その時間までシフトインしているバイトたちをラストメンバーとか呼ぶ。彼らは店のシャッターを下ろすと同時に、掃除に始まる閉店作業をこなし、素晴らしい手際で明日の朝開店できる手筈を整えて帰っていく。そのうちの一人だけが社員、つまり今日は僕だけど、と居残りをして、最後の最後に鍵を閉める、それをクローズと呼んでいる。ラストメンバーたちの仕事のスピードに、その日の事務作業が追い付かないのだ。現金も置いているので、何かあった時のために二人体制としているが、それは各店舗に任されている。  僕達社員は、そのクローズもアルバイトなので、できるだけ早く帰すために、営業時間が終わらないうちから、パソコンとのにらめっこを始める。  本部へ送信するデータの作成や、自店の当月の進捗状況の確認、併設ショップの売り上げと在庫管理……などなど、カタコトとキーボードを叩いている間に営業は終わり、ラストメンバーたちが掃除道具を持って走り回り始める。 「お先でーす!!」 「お疲れ様でーす」 「お疲れ様ー」  怒涛のようにラストシフトのバイトたちが働き、そして帰っていった。クローズの風間は僕の邪魔にならないように、チラシを整えたりとかの雑務をしながら僕に話しかけてくる。 「小阪さんって、何歳ですか?」 「三十四」 「めっちゃガタイいいですけど、スポーツされてました?」 「野球……風間は?」 「俺はバレーボールとバドミントンです」 「おお。なんかポイな」 「ですか~?」  今日はトラブルもアクシデントもなかったので、そんな話をしている間に作業は終わり、ようやく今日の営業が終了する。僕は椅子の背を使ってぎゅーーーっとストレッチし、お疲れ様、と言いあいながらロッカールームへ着替えに向かう。 「小阪さん、今度俺に筋トレ教えてくださいよ」 「いいよ。今日ぐらい暇なクローズの時か、オープンの時な」 「はーい!!」  オープンというのはまさに開店のことで、クローズがしっかりしていればわりと穏やかなシフトだ。開館時間まではマシンを使ってもかまわない。ラストメンバーでも、きちんと掃除や片付けが終われば、鍵を閉めるまでは使ってもいいことになっている。 「先帰ってていいから。シャワー浴びてから帰るし」 「はーい。……小阪さん」 「んー?」 「藤田マネージャー、優しいですか?」 「……なに、言って」  今日の僕のクラスは、二十二時までだった。トレーニングウェアから制服のポロシャツとハーフパンツに着替えはしたけれど、汗が気持ち悪い。だからいつも、シャワーを浴びてから帰る。ロッカーからタオルを取り出していた僕は、風間の言葉に動きを止めた。  ゆっくりと彼を振り返れば、風間は楽しそうに笑っていた。固まってしまった俺の方に、彼が近づいてくる。心拍数が急激に上がって、呼吸が浅くなる。 「仲よさそうだから。優しいのかなって」 「……さあ?」 「優しくないんだったら、やめとけばいいのに」 「……風間に関係ないだろ」 「ですね。でも、俺は優しいよ?」  呆然としていたら、風間は僕の両側に腕をつく。背後には冷たい金属製のロッカー。閉じ込められた。長身の僕は、同じ高さからの視線を受け止めることに慣れていない。風間はじいっと僕の目を見つめたまま、唇が触れるほど顔を寄せて囁いた。 「優しくない人、みんな切れば、俺が優しくしてあげるよ」 「……ちょ、っと」 「優しくない人が好きなの?……克彦さん」 「触るなっ!」  僕は彼を突き飛ばして、脱兎のごとくロッカールームを逃げ出した。混乱して、何が何だかわからないけれど、怖かった。一目散に従業員用のシャワールームに飛び込んで、震える指でカギをかける。 「なに、あいつ、なに……」  藤田さんとのことがバレたのか?なんで?みんな切れって言った?みんなって?あいつはどこまで知ってるんだ?  優しくしてあげるよ。  呼吸が収まらない。喉が渇く。僕はギュッと目を閉じた。あんな年下の、調子のいいバイトの口車に乗せられてたまるか。
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