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「美大の学生だった頃、一人でヨーロッパ周遊の旅行をしたんだ」
久志は淡々と、自分の過去を語り始めた。本物の美術に触れたくて、バイトで稼いだお金で三か月ほど、各国をめぐる貧乏旅行だったという。そのころの久志は、きっと可愛かっただろう。
「最後の滞在地はフランスだった。飛行機の関係でね。美術館は入場料が高くて、ロンドンはほとんど無料だったから、予定が狂ってさ。仕方がないから、宗教画やステンドグラスを見に、よく教会に行ってたんだ」
「へえ。教会はタダなの?」
「入って礼拝する分にはね。礼拝堂にある絵を見るのはタダだ」
「そう。綺麗だった?」
「ああ。だけど、有名なところは観光客が多くてゆっくりできなくて、少しずつ、街外れだったり、小さくて目立たない教会に足を運ぶようになった」
「そうなんだ」
「そこに、…………尊さんがいた」
二人の出会いは、そんなロマンティックだったのか。異国の地で、知らない人しかいない、そんな、恋に落ちるしかないようなシチュエーション。
「日本人にほとんど会わない場所だったから、最初は尊さんのことも日本人だとは思わなかったんだけど。僕が教会のベンチに座ってボーっとしてたら、迷子なの?って」
久志はその、十年以上も前の思い出を懐かしそうに僕に語る。寂しそうに嬉しそうに、僅かに微笑を浮かべながら。僕も薄く笑って、久志に続きを促す。
「その日のランチを、一緒に食べたんだ。それで、美大の学生だとか、もうすぐ日本に帰るけど、三ヶ月も旅行してたんだとか、俺が色々話すのを、笑顔で聞いてくれてさ」
「優しいね」
「……そう、だね」
「優しかったから、好きになっちゃった?でも、大学生で初恋って遅くない?」
「……一人で旅行するのに疲れもたまっていたし、日本語にも飢えていたし、何より、直感した。ああそうか、僕はゲイなんだ。それも、女役がしたいんだってね」
「その時、初めて?」
「うん。女の子と付き合ったことがなかったわけじゃないけど、ちっとも面白くなかった。気の合う女の子とは、本当に友達って感じで楽しいよ。でも、守ってあげたいとかさ、触りたいとか、そういうのがわからなかった」
生まれたときから、そうだったんだよね。気づくのが遅かっただけでさ。
久志は肩をすくめてそう言った。その感覚は僕にも覚えがある。気づかせたのは久志だ。遅かれ早かれだったと思う。ずっと本当の自分を知らないまま生きていくと言うことはなかっただろう。
「じゃあ、叔父さんもゲイなんだ。僕知らなかった。かっこいいのに独身なのは、変な人だからだと思ってた」
「あ……ごめん。俺どうかしてるよな。あの人のそんな話、悟に聞かせるべきじゃないのに」
「今さらだよ」
僕の笑顔と軽い返事は、あまり慰めにはならなかったようだ。沈痛な面持ちで、久志は俯いてしまった。部屋の中は静かになり、時間がゆったりと流れる。叔父さんは何時に帰ってくるんだっただろうか。
「ねえ、久志」
「……うん」
「僕が叔父さんの甥だったから?」
「…………」
「ずっと付き合ってたの?僕と叔父さんの二股?」
「違う!」
久志は泣きそうな顔で大きな声を出した。僕は動じず、どう違うの?と聞き返した。久志は長めの髪を振り乱し、あの人が悪いんだと吐き捨てる。少しずつ、久志の感情の波が乱れ始めているのを感じた。彼の声は震えている。
「俺だってわかってた。尊さんは俺を、部屋に泊めてくれて、いろんなところに連れて行ってくれて、だけど、俺がパリにいる間だけの遊び相手だって、わかってたけど!」
「久志……」
「わかってたけど、好きだったんだ……」
甘い夢のような日々はあっという間に終わり、久志は帰国した。何度も何度も、連絡先を教えて欲しいと頼んでも、叔父さんは困った顔で断ったらしい。引きずることじゃないよ、と言ったそうだ。
「バイトしてお金を貯めて、もう一度パリに行ったけど、尊さんはもういなかった」
「そう」
「裏切られた気分だった。パリに行けば、パリでなら、俺に優しくしてくれると思ったのに、違った」
「うん」
「俺は結局、大学を出て、適当な事務所に籍を置いて、手当たり次第にあの人を探したよ。教えてくれるって言うなら誰とでも寝た」
でも結局、会えなかった。
久志はようやく、滴の伝うペットボトルを掴み、水を少し飲んだ。ああ、そうだ。その喉が好きだったな。僕はじっと久志を眺めていた。少し歳を感じさせるようにはなったけれど、やはり彼はひどく綺麗だ。
「そんなことをしてたら、フリーランスで仕事ができるくらいの人脈ができた。まあ、この業界はゲイが多いからね。それでもう、忘れようって思ってた。だけど」
久志は言葉を切って、僕を見た。目が潤んでいる。僕は場違いにも、彼を泣かせたいような衝動に駆られた。
「……すぐわかったよ。最初は、息子かと思って怒りで頭が真っ白になった。だけど悟は、叔父さんだって言う。彼は偶然にもこんなに近くに住んでいた。運命だって、思ったよ」
「ああ……わかるよ」
「ごめんな」
「復讐かぁ」
「…………俺は、最低だ」
自分の柔らかい恋心を踏みにじった大人への復讐。稚拙で見当違いではあっても、純粋で、まだ未練があるからこその意趣返し。久志は本当に叔父さんが好きらしい。
見るからに朴訥な僕を引っ掛けて、夢中にさせておいて、手ひどくふる。その事実を叔父さんが知れば、パリでの仕打ちを思い出し、自分に謝ってくれるかもしれない。また、傍にいられるかもしれない。
そのつもりだったのに、その計画はある日崩壊したのだと言う。
「覚えてるか?俺と一緒に歩いていて、尊さんに会ったの」
「え?ああ。あったね、そんなこと」
「あの人に会いたいってずっと思ってたけど、会うのは怖かった。なのに、あの時偶然」
「うん」
「…………初めましてって」
「え?」
久志の声が、低く暗くなっていく。自分の髪をかき上げ、頭を抱えるようにうつむき、小さな声で、久志は呪詛のように呟いた。
「覚えてなかったんだ」
「……え?」
「あの時、あの人は俺に初めましてって言った。信じられなかった。忘れられたんだ!俺はこんなにどっぷり囚われているのに!あの人は自分が手を出した学生のことなんか忘れてたんだ!!」
「久志」
「もう、何もかもどうでもよくなった。家を突き止めて、そう、ここだ、何日も待ち伏せをして、出てきたあの人に近づいた。俺、どこかでお茶でもしませんかって誘ったんだ。すごく、勇気を出して、なのに!」
「久志、落ち着いて」
「困った顔で笑って、あの人はいつもそうだ、すみませんが、そういうのはちょっとって言ったんだ。下心を見透かされた。そう、俺は、あわよくばって考えたんだ。もしかしたらって、最初からやり直せるかもって!なのにあの人は断った!やっぱり俺なんか、好きでもなんでもなかったんだ!!」
僕はテーブルを迂回して激昂した久志の傍に近づき、落ち着いてくれと何度も言った。久志には届かない声だったようだけれど。久志は僕にじゃなくて、僕とよく似た髪の男へ叫んでいるのだろう。
「失礼します、ってお辞儀して、俺に背を向けたあの人に言った。悟君、あなたに似てアレがデカくておしゃぶりも上手ですよって。そしたら、ようやくだ。ようやくあの人は、笑みを消した。振り返った顔は、寒気が出るほどの無表情。俺はそれだけでもう、イキそうだった」
その時のことを思い出したのだろう。久志は一瞬恍惚とした表情を浮かべて、とろりと微笑む。自分をひどく傷つけた、強く愛している人に、自分の声がようやく届いたと思えたのだろう。傷つけることで実感できることもある。相手や、自分を。
「あの人、君は何者だって言うんだ。笑っちゃう……何者だ?本当に、綺麗さっぱり忘れてくれて、なんて清清しいんだろう!」
久志は自分のことを思い出せと叔父さんに迫り、叔父さんはようやく気づいたらしい。そして、何が望みなんだと聞いた。何でも言うことを聞くから、悟から離れろと。久志は自分との関係を強要した。
叔父さんは、知り合いから依頼されていたパリでの中期の仕事に久志を紹介して渡仏させ、難なく久志を僕から切り離した。僕のあのときの涙は、叔父さんのせいだったのだ。なんて人なんだろう。
久志は嬉々としてフランスで仕事をし、僕が高校を卒業して家を出るのを待って、叔父さんは欧州での仕事を増やした。二人は、そうやって綺麗なヨーロッパの街で、大人の恋愛を楽しんでいた。
「ある日、尊さんが、もういいだろうって言ったんだ。もう別れようって。信じられなかった。絶対に嫌だって言う俺に向かって、あの人はまた、あの困ったような笑顔で、君は俺が好きなんじゃないだろう。俺も君を愛していないって」
「え?久志は」
「俺は尊さんが好きだった!だから、仕事で尊さんが長い間いないときは寂しかったし、俺みたいなキャリアのない人間が仕事を取るには身体だって使わなきゃいけない。だけど、愛してるのは尊さんだけだったんだ!なのに、あの人はまた、どこかへ行ってしまって…………!」
蜜月は僅かに一年足らずで終わり、後ろ盾をなくした久志がパリで行き詰るのにそう時間はかからなかった。それでも久志は、前と同じように、業界関係者に叔父さんの所在を聞いて回り、身体で謝礼を払い、探し続けたけれど、結局見つけられないままに帰国した。それが半年前だと言う。
「一昨日、知り合いから連絡があって。空港でタケルと会ったよって。便が遅れて空港に一晩泊まったなんて可哀想だよなって。そいつはゲイじゃないから、俺が尊さんを探し回ってたなんて知らない。なあ、これって運命じゃないか?」
「久志……」
叔父さんの帰りを、待ち伏せしていたんだと言う。久志は何も変わっていない。綺麗で年上で、何年経っても同じことを何度も繰り返す。そのことに自分で気づいているんだろうか?
「何をしている」
僕が久志を慰めようと口を開きかけたその時、叔父さんが帰ってきた。僕のとなりで、久志は雷に打たれたように身体を強張らせ、小さく悲鳴すら上げた。
低い静かな声だったけれど、叔父さんの顔は笑っていなかった。
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