筋肉と焼肉にリボンをかけて

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 翌日と翌々日、すなわち土日は、例に漏れず佐川は朝から晩までバイトだった。月曜日の晩に、帰ってきた神坂におかえりなさいを言うまでのほぼ三日、佐川は神坂と顔を合わせなかった。それがひどく、楽だった。 「マリちゃん、飯は?」 「いい。食べてきた」 「そうですか」  いつもより遅い帰宅だった。八時過ぎには神坂から、遅くなるから先に寝てていいとメールが来ていたけれど、気楽な学生である佐川はぼんやりとリビングでテレビを観ながら神坂を待っていた。  自慰に付き合うことさえなければ、佐川は神坂と話すのが好きだった。そういうときは神坂は、ちゃんと佐川の目を見て話をしてくれるからだ。経験上、神坂は帰りが遅くなると自慰をしない。だから、佐川は安心して待っていた。  しかし経験則はあくまで経験則であって、規則でも法則でもない。 「トラ吉。まだ寝ないなら、付き合え」  めっきり寒くなってきた。神坂は上等そうなコートを脱ぎながら、佐川の方を見ずにそう言った。佐川はとっさに、本当に何の考えもなしに、それを断っていた。 「すみません。明日、本当に朝早くて、勘弁してください」 「……」 「す、みません」 「……あっそ。おやすみ」  俯く佐川には、神坂がどんな顔をしているのかわからなかった。彼は佐川が運んだ自分の鞄を手に、それ以上何も言わずにポフポフと自室へ行ってしまった。  閉まるドアの音は、好きではない。同じ家の中にいても、締め出されたと感じるからだ。そして佐川は自嘲する。そもそも、そんなに親しくもない、と。神坂と自分は、契約や取引で繋がっているだけなのだと。  佐川は自分の限界をひしひしと感じながら夜を過ごし、明けきらない時間に家を出た。そんな時間に、どこにも行くところはなかったけれど、自分があの家にいる資格はないと、佐川は思った。  ここ最近、神坂の残業は多かった。だけど、佐川が彼の趣味に付き合うという義務を、考えもなしに一度放棄した途端、それは顕著になった。  避けられているのだろうか、と佐川は考えたけれど、それを聞くことも出来ない。聞く隙を、神坂は与えてくれない。  ほぼ毎日淡々と、遅くなるから先に寝てろというメールを受け取り、それでも意地で、神坂を出迎えることだけは続けた。毎日欠かさないトレーニングと同じだ。一度サボれば、その癖がつく。続ける事が当たり前なのだと、自分の身体に覚え込ませるほかはない。  神坂は出迎える佐川に、食事の仕度は自分でするから、もう寝ろと促す。先に風呂に入るから、もう寝ろと言う。疲れたからもう寝ると、さっさと部屋に引き取っていく。自慰どころか、わずかな会話もない。神坂は線の向こうに佐川を入れないし、こちら側へ歩み寄ってくれることもなくなった。  いっそ出ていけと言われたほうがマシだと佐川は思った。言わないのはきっと、神坂の優しさじゃない。自覚があるのなら行動しろと、これ以上僕の手を煩わせるなと、そういう無言の催促だろう。  佐川は、自分の中の正体不明の感情と、神坂の態度に耐えられなくなって、とうとう神坂の家を出る事にした。休日出勤だと言って神坂が出て行った日曜日だった。 「おかえりなさい」 「……ただいま」 「話、あるんです」 「なんだ」 「……」  神坂は佐川に背を向けた。そして上がり框に座って、丁寧に靴紐を解き始める。この状況で言わなければならないのだろうか。佐川は苦しくて、言葉をなくした。自分にとって、とても大事な話なのに、それでさえ目も見ずに言えと言うのだろうか。  神坂はまさしくそう考えているらしく、靴を脱ぎ終えてもそのまま座っていた。佐川にはその薄い背中しか見えない。 「なんだ」  怒っているのだろうかと、佐川はようやく気づいた。契約違反をしたのは自分だ。以前なら、佐川に至らないところがあれば、神坂は直せと言っただろう。そんなことはもう二度とない。彼が自分の方を向いたりはしない。自分は彼を裏切るのだから。佐川は自分の爪が手のひらに食い込むほど強く、拳を握った。 「……すみません。俺、もう、ここにいられません」 「あっそ」 「それだけ、ですか」 「お疲れ」  神坂はようやく立ち上がり、佐川に一瞥もくれずに、自分のバッグを掴み上げる。思わず佐川は、それを奪っていた。神坂は驚いたように目を見開いて、それでも次の瞬間、佐川を見上げるように睨みつける。佐川は場違いにも、ああ目が合ったと考えていた。 「それだけですか」 「何か言って欲しいのか」 「……」 「お前が何故出て行くのか、僕が聞くと思うか?出て行くのを、止めると思うか?」 「……」 「さっさと出て行け」  冷ややかに、きっぱりと、神坂は佐川にそう告げた。白く細い指が、バッグの持ち手を掴んで引く。佐川はそれを胸に抱き締めて、放さなかった。自分でも何がしたいのかよくわからない。神坂は嫌そうな顔をして手を離し、そのまま廊下を歩き出す。 「マリちゃん!」 「二度と呼ぶな」  吐き捨てるような強い声は、聞いた事がなかった。佐川は混乱し過ぎて、離れつつある神坂の腕を掴んで引き止める。スーツの上からでもわかるほど細い腕を、少し強く掴みすぎたようだ。加減ができる余裕は、佐川にはない。神坂は痛みに眉を顰めて、触るなと言う。いつもいつも、彼は佐川を拒み続ける。  それが佐川を暴走させるのかもしれない。満たされなさに、焦燥感が募っていく。何が満たされないのかはわからないままに。 「じゃあ、名前を教えてください。俺、知らないんです」 「教える必要がない。触るな」 「俺は、ただ黙ってあなたを見てました。詮索もしなかった。冷蔵庫もいつもいっぱいにしてた」 「で?それが嫌で出ていくんだろう。別に言わなくていいし、聞く気はない。触るな」 「どうして、あなたは」 「放せっ!」  神坂は大きな声と共に腕を引き、同時に脚を振り上げて佐川の太ももの辺りを蹴った。さすがに手が緩み、佐川は神坂の腕を放してしまう。それでも鞄を渡そうとはしない。神坂の頬に朱が差す。冷ややかだった視線は、怒りに満ちていた。 「出て行け。明日の朝一番で、だ。得意だろう?」 「……」  今度こそ、神坂は踵を返し、佐川の入れない線の向こうへ行ってしまった。いや、そもそも、彼は一歩もそこから出てはいなかったのかもしれない。  嫌いなドアの閉まる音を聞き、佐川はしばらく玄関に立ちつくしていた。ずっしりと重い、神坂の鞄が、佐川の腕の中にある。  取るに足りない一時の想像とはいえ、こんな鞄を毎日持って仕事に出かけて、夜遅くまで働き、疲れて帰ってくる神坂を、ほんのわずかでも疑った自分を恥じ、土下座でもしたいような気分だった。  彼は潔癖で、プライドが高くて、公私をきちんと分ける男だ。そんな人を裏切った自分は、やっぱりここにはいられない。  神坂が引き止めてくれることを、期待しなかったわけじゃない。どうしてだと、聞いて欲しかった。だけど今は、そんな自分に反吐が出る。  佐川は神坂の鞄を、リビングのソファにそっと置いた。そして、いつも彼が座る、一人掛け用のソファをみつめ、自分がいつも座る場所へ視線を移す。次は誰が座るんだろうか。  逃げるんだ、自分は。佐川はそれを何度も自分に言った。自分は、逃げる。あの人から、逃げだす。自分は卑怯で、弱くて、身勝手だ。 「ありがとうございました」  佐川は神坂の部屋のドアの前で深々と頭を下げ、震える声で、そう告げた。返事なんて、あるはずもない。長い時間そうしていて、ようやく頭を上げると、佐川はその夜のうちに、すでにまとめていた荷物を担いで出て行った。
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