最終話「キスを待つ頬骨」

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最終話「キスを待つ頬骨」

e3d19c6d-4dde-42fa-9cb0-d828eb06f91e(UnsplashのBinit Sharmaが撮影)  清春は、まだ空いているレセプションカウンターのはしで、チェックアウトを頼んだ。部下の堤がニコニコして対応する。 「おはようございます、井上さん。1204、アウトですね?」 「ええ、頼みます。忙しいときに、申し訳ない」 「まだ早いから大丈夫ですよ。ええと、インの時のゲスト名は、岡本佐江様になっていますが、よろしいですか」 「ええ。まちがいないです」  清春はスーツの内ポケットから、財布を取り出した。 「ゆうべはおれも泊まっていますから、二名で清算してください。あと、ルームサービスとランドリーのオーダー分も」  パソコン画面を見ていた堤はほっそりした指先をキーボードに走らせた後、いたずらっぽく笑った。 「ランドリー料金は、ランドリー部からのサービスになっています。あと、朝食は宴会部の末井チーフがお支払いずみです」 「末井が、ですか」 ふう、と清春は息を吐いた。すると、バックルームから先輩アシスタントマネージャーの白石も、笑いながら出てきた。 「昨日の分はルームチャージもいらないぞ、井上。なにしろ夜勤スタッフ全員が、存分に楽しませてもらったからな」 「白石さん……ランドリーから情報が行ったんですね」 「あんなことするからだろう。お前、わかっていてやったな?」 「どうでしょう」  清春は笑った。白石は軽く清春の肩をたたいて、真乃と話している佐江のほうを見た。 「噂には聞いていたが、すごい美人だな。ただ、俺はあのひとに見覚えがある気がするんだ……コルヌイエで会ったのかな?」 「そうでしょう。ですが、白石さん」  清春は財布をしまいながら、ちらりと佐江を見た。朝のひかりの中、この世の何よりも美しい清春の恋人。 「——『あれ』は、おれの女ですから。たとえ先輩でも、手を出さないでくださいよ」 「言うなあ、お前。そんなタイプだったか?」 「どうも、そんなタイプだったようです。自分でも意外なんですが。あ、今日はお休みをいただきますが、よろしいですか?」 「休め休め」  白石は笑って言った。 「ひさしぶりにお前の、まともな顔を見たよ。惚れた女の効果はたいしたもんだな」 「それから、末井にも礼を」 「ああ、あいつ、朝飯のテーブルに百本のバラをつけるって、大変だったんだぞ」 「止めてもらって、助かりました。では失礼します。また明日」  レセプションカウンターにいるスタッフ全員に軽く会釈をして、清春は佐江のところに戻った。 「佐江、帰るぞ」  真乃(まの)と話していた佐江が、にこやかにこちらを見る。その笑顔の華やかさに、今でも清春はちくりと嫉妬を感じる。  佐江の最愛の人は、いまでもきっと真乃だ。  だが、佐江と異母妹の間に足の片方くらいは踏み込めた気がしている。  今はそれで満足しよう、と清春は思った。  いずれ、佐江のぜんぶを清春でいっぱいにする。その日まで、ただひたすらに大事な女を大事にしていけばいい。  人生は、それだけだ。  清春が何も言わないので、真乃はちらりと異母兄を見てからニヤリと笑って佐江に言った。 「またね、佐江。連絡するから」 「ええ。あなたも休んでね。大事な身体なんだから」  真乃は軽やかにレセプションカウンターに戻っていく。その後ろ姿を、佐江はいつまでも見送っていた。  やがて、静かに口をひらく。 「彼女——きれいよね」 「ああ」 「あなたに似ているわ」 「どうかな。真乃はあまり、親父に似ていないよ。おれのおふくろとは血がつながっていないしな。さあ、行くか」  清春は佐江の背に手をおき、歩き始めた。エントランスに近づくと、若いベルマンが笑顔で近づいてきた。 「井上さん、おはようございます。車を呼びますか?」 「ありがとう、山瀬君。今日は駅まで歩きますから――駅でいいんだろ、佐江?」 「ええ」  佐江がうなずく。エントランスを抜けるとあまりの明るさに、目を閉じた。  どこかから、夏の風のにおいがする。 「今日も暑くなりそうね」  隣で佐江が言う。清春は彼女の高い頬骨をじっと見た。  十一年前の夏の朝、井上清春は、たった一対の目に恋をした。  強い光をたたえた目は、清春を恋に引きずり落とし、世界に、色と光と匂いを引き入れた。  清春の人生は、そこから始まったのだ。  そして今、この夏の朝に至るまでの長い夜が、清春の目の前でゆっくりと明けていった。 「行こうか、佐江」 「ええ」  清春の隣で、佐江の頬骨がキスを待つように静かに息づいていた。 【了】 水ぎわでございます。 清春と佐江の長い長い恋物語にお付き合いいただき 誠にありがとうございます。 少しでも、みなさまに 「ここではない、どこか」の恋の時間をお届けできたら 水ぎわ、望外の幸せでございます。 とはいえ このお話、 実は長い長い物語の スタートにすぎません(笑)。 順を追って、ほかのお話も公開していく予定です。 すべて完結済みですので(笑) ご安心してお付き合いくださいませ。 では、3日ほどのお休みをいただいて、 引き続き、清春と佐江、真乃と洋輔の出会ったころのお話を 公開させていただきます。 タイトルは 『まず、キスから始めよう』 きれい系エロ作家、水ぎわ。 より一層、きれいを磨きぬいて 皆様にお届けいたします。 ご愛読、誠にありがとうございました。 では、しばしのお別れを。
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