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第140話「おれにだけ、このひとを――」
(UnsplashのWil Stewartが撮影)
佐江は、ほっそりした長い首をかたむけて、かすかに笑った。
「つらいんです。あたしには、あなたのなかの銭屋さまを消すことはできないし、それを黙ってみていることもできない。
さっきも――」
佐江は切ない顔で、言葉を切った。
「さっきも、あなたが銭屋さまそっくりのしぐさで煙草を吸おうとするから、我慢ができなくなった。
馬鹿みたいだわ。今日はあなたに一目会えればそれでいいって、それだけを自分に言い聞かせてきたのに」
「――佐江」
清春が手を伸ばすと、彼女はするりと距離をとった。
テーブル上のナプキンを手に取り、目元をそっとおさえる。しばらく目を閉じ、呼吸を整えてから清春のほうを見た。
自分を守り切れる、安全な距離をとって。
佐江はソファに放り出したままのバッグを手に取って立ち上がった。
身体をかたむけて清春を見る姿はいいようもなく高雅で、清春はもう声も出なくなる。
清春の、最後の女。
「キヨさん、あたしが頼んだら、ほんとうに休んでくれますか?
めちゃくちゃになるまで働いて、あなた自身が壊れてしまったら、悲しむ人が大勢いるのよ。お願い、身体をいたわって」
「きみが、いないのにか?」
清春はどさりと椅子に座り込んで、つぶやいた。
佐江の言葉が頭の中でぐちゃぐちゃになり、どれが大事なのか、どれが清春を痛ませている言葉なのか、もう区別がつかない。
「きみがおれを捨てていくのに、身体を大事にしろなんて言うのか。だったら、きみがそばにいて、おれを大事にしてくれよ。
おれの欲しいのは最初からきみだけじゃないか。
何度もそう言っただろう?」
清春はうつむいたまま話し続けた。
「おれが欲しいのもおれが惚れているのも、きみだけだ。
香奈子さんのことを、今さら隠すつもりはないよ。彼女とは七年前に付き合っていた。それは、事実なんだ」
「ええ、そうね」
佐江は清春のそばに歩みより、そっと肩に手を置いた。柔らかく置かれた手のひらから、あたたかな佐江の体温がつたわる。
清春が、欲しくてほしくて、しかたがないもの。
どうしても――手に入らないもの。
ああ神様、と清春は生まれて初めて願いをかけた。
このひとをそばに置いておけるなら、この先すべての幸運を差し出しますから。
だからどうか。
おれにだけ、このひとを――。
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