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第138話「自分を捨てた男のために」
(UnsplashのViktor Zhulinが撮影)
清春の論理的な頭脳が働く前に、唇が赤裸々な言葉を投げつけた。
「誤解してほしくないけどな、洋輔にとってのキスは、あいさつと一緒だよ。された女にとっては腰がくだけるほど佳いらしいが、洋輔にはなんの意味もない。
まあ、きみにとっては、しょせん洋輔の身体もおれの妹にいたるための経由地に過ぎないんだろうけどな」
「いったい、何のことです?」
佐江は眉をひそめて清春を見返している。テーブルにきれいに座り、たったひとりで食事のサーブをされているとは思えない優雅さだ。
清春は手にかけたナプキンを乱暴に放り出し、スーツの内ポケットから煙草とライターを取り出した。
煙草を左手の中指と薬指で持ち、火をつけようとする。
その瞬間、テーブルから身を乗り出した佐江が、清春の口元から煙草をひったくった。
清春が驚いて叫ぶ。
「佐江! 危ないじゃないか、ライターの火がすぐそばだったぞ。やけどはしなかったか」
「私のやけどを心配する余裕があるのなら、少しでも真乃と洋輔さんの気持ちを考えたほうがいいわ」
「真乃と洋輔? なんのことだ」
「あの二人は――」
語調を荒げながら佐江が椅子をけり、テーブルをまわって清春の前に立った。
まるで透明な炎が佐江の全身から噴き出しているようだ。その怒りは目の前にいる清春に向けられていた。
熱い。
佐江の全身から、怒りが噴き出している。
「真乃と洋輔さんは、あなたのことを気づかって心配して、わざわざ私にあなたを説得するように頼んできた。そうでなければ、こんなところに来ませんよ。
自分を捨てた男のために、なぜ私が、ここまでしなくちゃいけないんです?」
清春が、ごくりと唾を飲んだ。
こんな佐江は見たことがない。
怒りに身をまかせ、自制も落ち着きもかなぐり捨てた佐江なんて、清春は見たことがない。
それは、たとえようもなく美しかった。
感情を自由に叫びあげる、野生の女鹿のように。
岡本佐江の怒りは、清春をくぎ付けにするほど美しかった。
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