第139話「ほかの女の痕跡を、消しようもないほど残している男」

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第139話「ほかの女の痕跡を、消しようもないほど残している男」

92c9c60f-a623-4052-96a6-4042bd396744 (UnsplashのAndrey Zvyagintsevが撮影) 「あなたの顔なんて、もう二度と見たくなかった」  コルヌイエホテルのスイートルームで、岡本佐江はきれいなアーモンド形の瞳に涙をためながら、清春を見上げていた。 その清冽(せいれつ)な美しさ。  おれの惚れた女は、世界で一番美しい。  清春は、思わず声を失って見とれた。  しかし怒りにかられた佐江は、かみつかんばかりの勢いで言い立てる。 「あなたの顔なんて、もう二度と見たくなかった。 銭屋(ぜにや)さまほどの女性をムダに悲しませて、のらりくらりと過ごしているクズな男となんて、かかわりたくないに決まっている。 わかっているのに、あたしはあなたの声を聴いただけで、もうわけが分からなくなる」  そう、おれだってもう、わけが分からない。  きみがそばにいれば、どんなに怒っていてもどんなにののしられても構わない。  きみが、そこにいてくれれば。  そんな清春の気持ちに関係なく、佐江の声は続いていく。 「一度でもあなたの声を聴いたら、あたしはもう(さか)らえない。なにもかも投げ出して、あなたの言いなりになることはわかっていたのよ。 それでも、真乃(まの)が頼むから―――」  清春の愛した女は、清春を好きだと怒りながら、ぽろぽろと涙を流している。  涙のきれいな膜をとおして、清春は、あの夏の朝に目にした視線を見てとった。  真乃のため。  どこまでも、清春の美しい異母妹のため。  佐江の初恋のためだ。 「真乃が頼むから、だから来たのよ。 我慢できると思った。あなたの身体から(にじ)み出す銭屋さまのしぐさを、見てみぬふりができると思ったのよ。 でも、間違いだった」  佐江は涙でぐちゃぐちゃになった顔を下に向けた。形のいい額が、無防備に清春の前にさらされる。  さっき唇を当てたばかりの、いとしい女の体の一部がそこにある。手を伸ばす必要さえもない距離で、佐江の額は、うっすらと汗をかいていた。  ああ。あそこにもう一度、キスしたい。 「しぐさ? 何の話だ」  佐江は大きく息を吐いて顔を上げ、清春をまっすぐ見つめる。 「あなたはきっと、気が付いていないわね? あなたの身体には、銭屋さまの痕跡(こんせき)がたくさん残っている。 煙草の吸い方や、言葉の選び方、声の使い方。あなた自身が意識しようもないほど、あなたの身体に深く深く染みついている痕跡がたくさんあるの。 あたしが銭屋さまを知った以上、あなたがすることはもう全部、どうしようもなく彼女に結びついてしまう。あなたを見ているのは、つらいのよ」  佐江は手を伸ばし、清春の目元をそっと指で撫でた。  いとおしくてたまらない、とでもいうように。 「ほかの女の痕跡を、消しようもないほど残している男を好きになるのは、女にとって、楽なことじゃないんです」
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