第141話「永遠に手が届かないと思っていた光の塔」

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第141話「永遠に手が届かないと思っていた光の塔」

f95a7e5f-ff2c-4da7-9659-2cf209a76075 (UnsplashのShawn Tungが撮影)  清春は、自分の肩に置かれた佐江の手をぎゅっと握りしめた。 「だけどもう、香奈子さんとのことは終わったんだ。彼女は、あのピアスを形見(かたみ)だと言っていたよ。もう二度と、会うこともないだろうからって」 「あなたが望めば、会えるわ」 「会いたいとは思わないよ。いずれ会うかもしれないが、それはおれの意思とは関係がない。おれが今ほしいのは、きみだけだ。 ――佐江」  清春は顔を上げることができずに、ただ肩にある佐江の手を握り締めつづけた。 「きみに何を言っていいのかわからない。 だけどきみが出ていってから、おれはあの部屋で眠ることもできない。 どこを見てもきみの姿が残っていて、おれが何を失ったのかをうるさく言い続けるんだ」  清春はようやく顔を上げた。佐江のきれいな顔がすぐそばにある。  声が不安げにかすれていく。 「みんな、おれを捨てていくんだ。きみだけじゃない。 親父はおれが生まれる前におれを捨てたし、おふくろは早くに逝った。香奈子さんがほんとうに惚れているのはご主人だけだ。 そしてきみは、おれを一人でおいていく。 ――あの部屋で」  清春はわずかに近づいてきた佐江の顔を、ふるえる両手で包み込んでささやいた。 「あの部屋で、ひとりで東京タワーを見ているのは嫌だ。もう、いやなんだ」  そっと佐江の(ひたい)にキスをする。  ひんやりした額からは汗がひき、かすかに佐江のにおいがした。  清春は力を入れずに佐江を自分の胸に抱きこむ。  彼女が、いつ逃げてもいいように。  佐江が清春の言葉に引きずられて、本意ではない決心をしてしまわないように。  それでも、彼女が清春を捨ててしまわないように、そっと抱きしめた。  佐江の額が、清春の胸でとまる。  うつむいたままの佐江の声が、ひそやかに聞こえた。 「このスーツの下に、東京タワーを見ながらひとりで宿題をしていたあなたは、まだいる?」 「いるよ」  清春は答えた。 「たぶん、今も宿題をしている。どれだけやっても、答えが出ないから」 「——あたしが、役に立つ?」  少女のような声で佐江が聞いた。清春の顔が、ようやくほころぶ。 「きみしか、答えを持っていないと思うよ。だからおれは、きみをずっと待っていた。八年も待っていた」  佐江と異母妹とのキスを目撃した、あの夏の朝。  あの日の佐江の瞳が、清春の世界をこじ開けた。清春はそれからずっと、待っていたのだ。  佐江を。  佐江だけを。   腕の中に、佐江がいる。  清春の、たったひとりだけ本当に望んだひとがいる。  そう思うだけで、たまらないほどの温かさが、清春を包み上げていった。  清春の顔が、やわらかく落ちていく。  ようやく佐江の唇にふれたとき、清春はあの光り輝く東京タワーに手が届いたと思った。  永遠に手が届かないと思っていた光の塔に。  清春が望むべくもないと思っていた、倖せの光に清春の唇がふれてゆく。
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