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第3話「捕食者のアドレナリン」
(Olya AdamovichによるPixabayからの画像)
「真乃ときみが、ただの話をする? まさか」
井上清春の中に、遠い記憶が一気によみがえった。
11年前、20歳の清春は広大な父親の家で短い夏休みを過ごしていた。
朝5時、清春がまだ誰もいないと思ったリビングでは、大きなカウチの上で異母妹の真乃まのがぐっすりと眠り、そのかたわらに、岡本佐江のほっそりした長身が、静かにかがみこんでいた。
佐江はまるでバレエダンサーのように優雅に真乃にキスをした。
かすめ取るような、蝶の羽はばたきのような、唇にふれたかどうかわからないようなキス。
その時、清春の気配に気づいた佐江が、こちらを見た。
何のためらいもない、凛冽な眼。
みずからの愛情と欲望を肯定しきった傲慢な少女の視線が、まっすぐに清春を見返していた。
清春はあの夏の朝からもう遠く隔へだたってしまったが、岡本佐江の中には、まだあの日の少女がいるらしい。
「きみにとっての真乃は、ただの友人じゃないだろ」
重ねてそう言うと、佐江の指がひくり、と震えた。
その手が、身長と比べてぐっと小さく子供のような柔らかさを持っていることに清春は初めて気がついた。
理由を持たない欲情が、清春の背中を駆け上がる。カフェのテーブルに身を乗り出し、清春は柔らかそうな佐江の手に指を伸ばした。
清春の手が届く直前に、佐江はさりげなく指を引いた。清春が詰めた距離があっというまに元に戻っていく。
「キヨさん、あたし仕事に行きますから」
逃げたな、と清春はニヤリと笑った。
まるで小心者の獲物のように、岡本佐江はすばやく清春の手の届かないところへ逃げ出した。
その早さは驚嘆に値あたいするが、獲物が逃げれば逃げるほど清春の飢えはつのり、最後には獲物を捕らえてしまうより、おさめようがない。
獲物は、佐江だ。
だが、清春はしずかに立ち上がり、佐江を連れてカフェを出た。
そっと佐江の背中に手を当てて歩きながら、清春の長い手足は捕食者のアドレナリンにふるえている。
この女が、欲しくてたまらない、と思う。
井上清春は、どちらかというと理性的で淡白な性格の男だ。どうあっても、手に入れたいと思ったものなど、これまでの31年間に一つもない。
子供のころにはあったのかもしれないが、今ではもう、忘れてしまった。
ろくでもない人生だ、清春がそう思ったとき、信号で立ち止まった佐江の背中に、清春の手が不用意にふれた。
――あたたかい。
そう思った瞬間、清春の身体は岡本佐江に向かって一直線に落ちていった。
男の唇が、佐江の頬骨のかすめ、ふっくらした唇を探り当て、路上でごく浅いキスをする。
佐江の付けている香水が、軽く香った。
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