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「ほどほどにしとけ」
残業をしていると、平岩さんが現れた。
ものすごく唐突で僕は飛び上がった。
「あんまり根を詰めると心臓が止まるぞ。さっさと帰って飯食って寝ちまえ」
「今、平岩さんのせいで止まりそうになりました」
「もっと図太くなれよ」
「そうそう、そう言えば高橋さんが、悪い冗談言ってましたよ。平岩さんが、その、もういないとか」
「あっはっはっはっは」
平岩さんは豪快に笑い飛ばした。
「そうなんだよ!俺がこんなに繊細だなんて思ってもみなかったよ。顔と水虫以外はどこも悪くなかったのによ。ちょうど今の大井みたいに残業してたらガツンと強烈なのがここに来ちゃってなあ」
平岩さんはゴツゴツしたこぶしで自分の胸を叩いた。
「……」
「高橋のことは心配してないんだよ、自分で何とかできるやつだ。川島は注意しとかないと生霊飛ばすんだ。こないだの社食で気づかなかったか?あれ生霊だぞ。本体はまだ仕事してた」
「そんなはずは……」
言いかけて僕は口をつぐんだ。
川島さんはあの時しゃべっただろうか。
影が薄くなかっただろうか。
そんなことより平岩さんは。
「安心しろ。課長のところには俺が毎日行ってるからな。気づいているかは知らん」
何をどう安心しろと言うのだろう。
「誰も悪くないのさ。むしろみんないいやつだ。それがまずい。大井、できるならおまえは今のうちにやめろ」
言いたいことを言うと、平岩さんはくるりと背を向け、ぺたぺたとサンダルを鳴らして歩き出した。
平岩さんの大きな背中は宙に溶けるように消えた。
結果から言えば、この会社を辞められたのは数年後だった。
僕は身体を壊し、その後会社自体も無くなった。
好きな仕事だったし、自分なりにやり切ったから悔んだことはない。
僕が初めて出会った幽霊は、とても奇妙で親切だった。
【完】
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