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今回は実際にあった話をしようと思う。
これまで誰にも話したことがなかったのは、自分でもとても信じられないことだからだ。
僕が初めて勤め出した、そう、ずいぶん前のことになる。
とにかく貧しかった。
昼食は前日の残り物を寄せ集めて会社に持って行く。
弁当とも呼べないようなそれを、いつもひとりで食べていた。
ある日、寝坊して何も持たずに出勤した。
うっかりが過ぎて弁当どころかカバンも忘れた。
どうやって午前中をやりすごしたのかは覚えていないが、何とかなったのだろう。
「よう、大井。珍しいな、今日は弁当じゃないのか。今から社食行くけど一緒にどうだ?」
僕の名前は大井大河。
続けて読むとなかなか痛いので、子どものころはからかわれがちだった。
声をかけてくれた先輩の高橋さんと川島さんは僕の名前には触れなかったので、多分よい人たちなのだろう。
そう言えば社員食堂なんてものがあったのだ。
ポケットに辛うじて入っていたのは千円札一枚。
少々惜しいが、昼食抜きは考えられなかった。
「行きます」
「A定食とB定食があるけどBの方が量が多いよ。値段は同じ。おれのおすすめはB定食だな」
とは言うものの、教えてくれた高橋さんの手にはA定食の食券がある。
ここはBではないのか。
ちらりと川島さんを見ると、かけうどんを選んでいるので参考にならなかった。
どちらにしようか迷っていると、後ろの方でぺたぺたと音がした。
「B定食はギャンブルだぞ。量はあるが高確率でパイナップルとかレーズンが紛れ込んでいる。好きだったら止めはしない」
ドスの効いた声、しわくちゃのシャツ、ぺたぺたした足音はサンダルのせいだ。
ごつくて髭面の、見たことがない人が立っていた。
「えーっと……」
「平岩だ。礼は要らんぞ」
「あのう、平岩さんは何を頼みますか?」
「大井~、何ぶつぶつ言ってんの。早く選びな」
高橋さんに急かされて、僕は思わず後ろを振り返った。
あの妙に存在感のある平岩さんはもういなかった。
僕は高橋さんに気を遣ってB定食を選んだ。
確かに四百円でこの量なら多すぎるくらいだ。
フルーツは好きなのだが、パイナップルごはんの存在感は何を食べても拭えなかった。
「あはは、やっちまったな大井!」
社会人ならばこの程度のいたずらは大目に見なくてはいけないのだろうか。
いつもすまなそうな顔の川島さんは、いつの間にかかけうどんを食べ終えて仕事に戻っていった。
「あー、平岩さんの言うこと聞いとけばよかったなあ」
僕の小声を聞きつけたとたんに、高橋さんは何故か身体を強ばらせた。
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