九 居場所

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 緑の芝生が小麦色に色変わりをした横浜の英国庭園。そこで働く清子はメイド服を着て働いていた。清子が遭遇したトラックの事故は、ワトソン領事が再捜査を求めた結果、清子と無関係と処理された。そして馬小屋にあった金銭とブローチについても、清子の主張が認められ不問となった。 そしてこの日は領事館に客が訪れていた。 「やあ。君がロバート君かい?」 「ようこそ。桐嶋プロフェッサー」  憧れで頬を染めるロバートと握手をした彼はにっこり微笑んだ。 「先生でいいよ。君は日本語が上手だね」  東京大学植物研究の助教授の桐嶋玲二はそう言ってほほ笑んだ。フランス領事と避暑地で知り合った彼は、ロバートの研究を知り会議のついでにやってきてくれた。 「君のレポートを読んだよ。素晴らしいね。そして。まだ僕に見て欲しいのがあるそうだが」 「うん。これです」 「どれどれ……『自然の庭について』か」  領事館の客間に通された桐嶋は熱心にこれを読んだ。その間、清子がお茶を持ってきた。 「あ、清子。僕の隣に座って」 「君は?」  顔を上げた桐島に清子は丁寧に挨拶をした。 「桐嶋先生。私、庭仕事担当の清子と申します。坊ちゃまの研究の助手をしておりました」 「助手……では君たちに尋ねるが、蜜蜂に目をつけたのはなぜかな?」  ロバートは必死に説明をした。それに清子も補足説明をした。桐嶋、黙って聞いていた。 「なるほど。この着目点は面白いと思う。それに蜜蜂を呼ぶための、この装置?まあ、養蜂の道具を置くのが一番だけど、ロバート君が考えたこのやり方も実に興味深い」 「やったね清子。蜂を呼ぶ方法で良いんだよ」 「では桐嶋先生。坊ちゃまの研究はそのように進めて良いのですね」 「いやいや。何事もやってみないとわからないね」  そんな桐嶋はざっと助言を始めた。 「まず。蜜蜂の育て方を詳しく調べないとならないね。例えば雨に濡れない場所に容器を置くとか、あとは気温かな。直射日光を避けるとか、基本を調べるべきだ」  真顔の桐嶋の声にロバートは反応した。 「そうか?それは僕もわかってなかった。ねえ、清子。じゃ、容器を置く場所を調べないとね」 「それでしたら坊ちゃま。容器の数も増やして設置しませんか?無駄かもしれませんが、どれかには蜂が入ってくれそうです」 「そうだね。それに容器もまだ実験だからさ。色々な形のものを置こうよ。そして一番入る形を調べようよ」 「坊ちゃま。それは同じ箇所に置かないと比べられませんよ。実験というものは常に同じ条件でやらないとなりません」 「はははは」 ロバートと清子の話に桐嶋は突然笑い出した。 「ははは。笑ってしまって申し訳ない。君たちがあまりにも熱心だから」 「先生。僕ら、間違ってますか」 「先生。どうか坊ちゃまに助言をお願いします」  真顔の二人に桐嶋はいやいやと手で制した。 「君たちの考えは正しいから胸を張っていいよ。ところで助手の清子さん。あなたはどこかで研究か何かをしていたのですか」 「実は、実験とまではいきませんが」  清子は恥ずかそうに話した。それは実家にいた時の話だった。 「私、春に咲くチューリップを、時間があったので実験したことがあります」 「ほう」 「僕、初めて聞くよ」 「秘密にしていたわけではありませんが」  清子は簡単に話した。それは球根を夏の間冷やし、秋に花を咲かせた話だった。 「え?チューリップは春に咲く花でしょう?」 「そうです。でも坊ちゃま、日本には小春日和という秋の日の暖かい期間がありまして。それは秋なのに、まるで春と同じ太陽の時間と気温なのです」 「……では清子さんは、球根を夏に冷やし冬が来たと思わせて、それをまだ秋なのに、春だと思わせて咲かせようとしたのですね」 「はい先生」  ロバートは清子の服の袖を引いた。 「それで咲いたの?」 「ええ。咲きました。そしてその時、比較できるように冷やしていない球根でも、秋の日に同じ条件育ててみましたよ。咲きませんでしたが」  桐嶋はうなづいた。 「それで良いのです。清子さんは実験の基本を押さえておいでだ。これは楽しみだな」  桐嶋は嬉しそうに足を組み紅茶を飲んだ。清子は恥ずかしそうにしていた。 「もう、清子!どうして僕にその事を教えてくれなかったの?」 「坊ちゃま。清子は素人ですもの。それにですね。実験は自分でやった方が面白いですよ」  仲良しの二人の様子に桐嶋は嬉しそうにカップを置いた。 「ロバート君には心強い助手がいるようだ。これは結果が楽しみだね」  その後もロバートは桐嶋に質問していた。日本の植物のスペシャリストの桐嶋は熱心な少年に快く実験方法を授けてくれた。 「さて。そろそろ時間なので、失礼するよ」 「桐嶋先生。ありがとうございました」 「ロバート君。それは私のセリフだよ」 桐嶋は彼にノートを返した。 「勉強したい気持ちに年齢は関係ないのだよ。いつだって誰だって。興味があることは挑戦していいんだ。僕も君に会ってその気持ちを思い出したよ」 「先生」 「ありがとう。君に会えて僕こそ勉強になったよ」  こうして桐嶋が帰る時間になった。清子は帰り支度の彼に上着を渡した。 「ありがとう。それにしてもロバート君の研究は楽しいですね」 「はい!坊ちゃまは熱心です。私はそばにいるだけですけれど」 「……おや?清子さんは、答えを知っているのに、あえて彼に考えさせているのではないですか」 「え」 見透かされて清子の驚き顔に、桐嶋はすまし顔でマフラーを巻いた。 「図星ですね。だって彼の今の庭の研究は正式な書き方なのでこのまま学会に出せるレベルです。それに彼が描いた植物の絵は実に繊細だ。この絵の先生も君が探してきたと聞きましたよ」 「それは。その、坊ちゃまがせっかく研究しておいでなので、表に出せるような、そんなものにして差し上げたかったのです」 「なぜ」 「素晴らしいからです。この研究が」 清子の即答に、桐嶋は嬉しそうに手袋を付けた。 「それを聞いて納得しました。清子さん。これからもわからないことは遠慮なく手紙をください。遅いかもしれませんが必ず返事をしますので」 「ありがとうございます。坊ちゃまが喜びますわ」  こうして桐嶋は見送りのロバートと清子に手を振って帰っていった。 「清子、あの先生。本物だね」 「そうですね。何せ東京の大学の助教授ですもの」 「僕が言っているのはそれじゃないよ」  振り返ったロバートは清子を見つめた。 「桐嶋先生は、清子の顔を見てもなんとも思ってなかったよ。きっと先生は清子の心を見てくれたんだって、僕は嬉しかったんだ」 「そういえば」  確かに何も反応してなかった桐嶋助教授に、清子はありがたく心で手を合わせていた。 「さあ!清子。忘れないうちに今の続きをやってみようよ」 「はい」  頬を染める少年の元気な大きな声に清子は感激していた。出会った時は落ち込んでいた子供ロバートが幼き頃の自分に見えていた清子は、こうして生き生きとしているロバートに胸が熱くなった。 ……なんて喜んでいるのでしょう。背中に羽が生えているようだわ。  天使のように微笑むロバートが庭ではしゃぐ様子に、清子は喜びの花束を抱えていた。 ◇◇◇ 「黒田様、今、私の耳には清子の部屋をお子様たちの隣部屋にすると聞こえましたが」  領事館の事務室に呼ばれたミス吉田は、通訳で秘書の黒田に眉をひそめて尋ねた。あのトラック事故以来、清子はキャサリン夫人の命令でメイド服を着て屋敷の中で仕事をするようになった。冬になり庭の仕事が減ってきた清子の話にミス吉田は鋭い目で黒田を見つめた。  そんな黒田は書類を整理しながら淡々と語った。 「その通りですよ」 「ご冗談ですよね」  この言葉に黒田は手を止め、立っているミス吉田に顔を向けた。 「どういう意味ですか?」 「黒田様はご存じだと思っていましたが、あの部屋はお側係りの部屋です。信頼できる者しか使用できません。その証拠に今はクマが、お二人を守っておるのですよ」  自分の考えに一切揺らぎがないミス吉田に、黒田はやれやれと頭をかいた。 「だから変更せよと申されておいでだ」 「そんな?そんなはずは」 「ミス吉田」  彼女の戸惑いを許さぬように黒田は構わず続けた。 「これは相談ではない。夫人の命令です。それと、あなたに領事から『信頼できるあなたにしか頼めないこと』が来ています」 「私でございますか?まあ、どのようなことでしょうか」    頬を染めるミス吉田に、黒田は書類を渡した。受け取った彼女は眉をひそめた。 「何ざますか、これは」 「横浜の下町の慈善活動についてです」  黒田の語った内容は、イギリス領事として地元横浜に貢献するという内容だった。 「ええと、そこに書いてありますが、この活動はぜひミス吉田に行ってほしいと領事の意見です」 「これを私が……」  絶句状態のミス吉田はわなわなと震え出した。そこには浮浪者の保護活動と記されていた。 「黒田様、これは、その、何をするのでしょうか」 「以前、私は領事と見学しましたが、困窮する彼らへの食事作りや、話し相手ですね」 「なぜ私がこんな事を」 「領事がそれだけあなたを信用されているのでしょう。それをクマさんとお願いしますね」  潔癖症のミス吉田は明らかに嫌がっていたが、通訳の黒田が領事の命令だと話したためミス吉田も折れた。こうして清子は言われた通り、ロバートと娘のアンナの部屋の隣になった。早速この清子の部屋に二人が遊びに来ていた。 「やった。これで清子といつでも会えるぞ」 「でも、坊ちゃま。清子にはあまりに立派なお部屋で、恐れ多いです。それに広いし」 「それよりも清子、早くアンナと遊びましょう!」 日本語が話せる二人は清子には愛らしかった。 そんなロバートに清子は植物の研究の助手をし、幼いアンナ嬢には日本の遊びを教えていた。 「アンナ様。これはお手玉です。それ」 「うわ!面白そう。アンナもやりたい」 「どうぞ」 小さな玉を放って遊ぶ日本の遊び、他にもあやとりや毬付きで清子は一緒に遊んでいた。 『ウグイスや、ウグイスや、たまたま(みやこ)へのぼりよとて、たまたま都へのぼりよとて……』  清子は手毬唄に合わせて毬をついた。それをアンナは見ていた。 『梅の小枝に昼寝して、梅の小枝に昼寝して、昼寝の夢おば、なんと見る、昼寝の夢おば、なんと見る、はい!』 これは『何と見る』の最後の時に、毬を股に通し、背面で受け取る遊びだった。勝気なアンナはすぐやると言い出した。 『ウグイスや、ウグイスや』 「そうです、そうです」 しかしアンナは毬をつくのが下手だった。清子はアンナに教えていた。 「アンナ様。毬は丸いのです。だからアンナ様の手も、こうして毬に合わせて丸めないとなりませんね」 「そう、か」 「それと、清子を見てください。いいですか」 清子の手本をアンナはじっと見ていた。 「わかった!アンナも毬と一緒に動きを取ればいいのね」 「そうです!さすがです」 「清子。もう何も言わないで!アンナは一人で大丈夫なの!」  元気な黄色いリボンの少女は勇ましく練習を始めた。 ……ああ。どうしてかしら、優子ちゃんを思い出すなんて。  実家にいた時、自分を蔑む妹がいた。美麗で愛くるしい妹だった。意地悪な妹に何度も何度も傷つけられたはずの清子だったが、こうして思い出すのは遠い昔、幼い仲良く遊んだことだった。 ……優子ちゃんも、こんな風に負けず嫌いだったわ。きっと、私に負けたくなかったのね。  揺れる黄色いリボンの頑張り屋の小さい背中のアンナが、清子にはどこか優子に見えていた。 「わあ?今の見た?清子」 「あ?すみません。見逃しました」 「ええ?今できたのに!もう一度やってみせるわ」 「ふふふ」  清子はこうして冬の期間は子守に任命された。そんなある日、清子は書斎にいる領事に呼ばれた。 ……緊張する……何の用事かしら……  鋭い視線の誇り高き英国人の彼は、仕事の手を止めて清子に向かった。彼は通訳に英語で話し出した。 「清子。旦那様は函館の水の話を知りたがっています」 「水?そうですね。川は亀田川だけしかないので、貴重なものです」 椅子に座るように言われた清子は、その歴史を説明した。 「函館山は岩盤が硬く、ツルハシなどで深く掘らないと水が出ません。ですので井戸がある家はお金持ちです」 清子の話を領事は黒田に通訳してもらいながら聞いていた。うなづく領事を見ながら清子は続けた。 「これは私が祖母から聞いた話です。江戸の末期の出来事ですが、箱館奉行所は五稜郭のお堀に堰を設け、そこに水を貯めていたそうです。そしてそこから取水し、木の樋で地下のトンネルを運び、『五稜郭上水』としてみんなで使用していたそうです」 「……いた。とは。では今はどうなっているのですか?」 「ありません」 ここで領事は、清子を見つめた。清子は説明をした。 「それは、日本を分けた戦争後、明治政府はそれを破壊してしまったのです。函館は戦争の時は反政府側だったからでしょうね。今でも函館の水が不足しているのはそれが理由です」  この説明に領事は納得していた。そして黒田に説明をさせた。 「清子。実はこの横浜も水が不足しているのだ。この町は川がなく井戸の水が浅い。そのため泥水が混ざり飲料に適しておらぬのだ」 「そのようですね。この屋敷は井戸がありますが」  サーカスにいた時にそれを知った清子に、黒田は満足そうに領事と目を合わせた。 「清子。旦那様はイギリスから技師を呼び、水道を引く工事を仰せつかっているのだ、お前の話はとても参考になった」 「はい。失礼します」 「Wait」 領事はまだ話をしたいと清子に紅茶を勧めた。その顔はどこは恥ずかしそうだった。通訳の話では、家族の話だった。 「はい。ロバート様の研究は続いております。それにアンナ様は、着物に興味があるようで、自分で縫ってみたいと仰っています」 「奥方様の事も尋ねています」 「奥様には、いつも優しくしていただいております」  この答えに領事はため息をついた。 「『実は妻はあの通り大人しすぎる。よってお茶会などが苦手なのだ。だが社交会も妻の重要な任務であるのでいつまでもそうも言っておられぬ。そこで清子、お前に頼みがある』」 黒田の通訳に清子はうなづいた。 「何でしょう」  領事は清子をじっと見つめた。それは清子にキャサリンの側係りになって欲しいという依頼だった。 「領事は奥様のお側係りだけでなく、友人になって支えて欲しいと仰っています」 「私に」  突然の話に清子は驚いた。 ……子守だけでも大役なのに。奥様をお支えするなんて。  恐縮する清子に対し、領事の目は真剣だった。清子は心の声を打ち明けた。 「しかし旦那様。私はこのような顔で、奥様に恥をかかせてしまいます」 「領事はそれを問題にしていないと言っています」  通訳の黒田はさらに語った。 「領事は感心しておいでだ。君が先日、事故現場にいた時。火事にならないようにトラックを建物から出そうとしたこと。そして車が建物に挟まっていたためタイヤの空気を抜きトラックを動かしたこと。領事はすべて承知だよ」 「でもあの時、私も必死で」 この時、領事は立ち上がった。そして窓の外を見ていた。 「そして。ロバート様のことも感謝されているのだ。彼があんなに植物に興味があるとは思わなかったそうだよ」 「That is. Because Mr. Robert likes this place.(それは。ロバート様はここが好きだからですよ)」 「What did you say?(何だと?)」  領事は振り返った。清子は自分にいい聞かせるように語った。 「He likes his family, likes this mansion, and likes the garden. That's why I can get so absorbed.(彼は家族が好きで、このお屋敷が好きで、お庭がお好きなんです。だからこそ、あんなに夢中になれるのですよ)」 ……ああ。そうだった。私も、優子ちゃんと楽しく遊べたあの時。あの時だけは。私も楽しかったわ。  顔の痣など気にしてなかった幼い頃は可愛い妹と遊んでいたことを思い出した清子は、自分にも幸せだった瞬間があったことを知った。  それを思い出させてくれたこのワトソン一家に清子は涙を拭った。仕事人間の領事は清子の涙と言葉に動きを止めた。 「The master's family is full of love and seems to be overflowing ... Kiyoko is really happy to be able to support her with her side(領事様のご家族は、愛でいっぱいで、溢れそうです……清子は、おそばでお支えできて、本当に幸せです)」 「Thank you(ありがとう)」  ワトソンは清子の手を握った。涙の清子はびっくりした。 「I swear I will protect you. Please continue to support us(私は君を守ると誓う。これからも私たちを支えてくれ)」 「Yes. If it's okay with me.(はい。私でよければ)」  誇り高き英国紳士は涙の娘と握手をした。その顔、ようやく微笑んでいた。 この日より、清子は正式に子守と夫人のお側係として務め出した。 横浜の冬には、清子に温かい居場所ができていた。それは彼女自身が自分で手に入れた居場所であった。 九「居場所」完
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