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六 夕暮れの薔薇
横浜街を見下ろす小高い丘の上。そこに佇むイギリス領事の庭の木々は秋色に染まっていた。小麦色になった芝生は浜風に揺れてどこか寂しく庭園を包んでいた。葉が落ちた樹木達はその姿を露わにし、まるで髪をとかすように、枝で風を切っていた。その花壇で秋桜は可憐に囁き、見上げるほどの高さの金木犀は、優しい香りを庭園に放っていた。
この秋の園で少年は大きく深呼吸をした。
「うーん。良い香りだ」
「坊ちゃま。この香りはこの木ですか」
庭師の清子はそういうと、落ちた小さな花を手にした。ロバートは嬉しそうにそれを一緒に見つめた。
「そうだよ。あれは金木犀だよ?ねえ、清子。日本にある金木犀は全部、オスの木だって知っていたかい」
「まあ、全部オスなのですか」
驚く清子にロバートは、頬を染めて説明をした。
「あのね。昔、この木は中国から日本に運ばれたんだ。その時、とても良い香りだから日本人はこれを増やして広めたんだ。だからこの金木犀は全部同じ木から増やされたって、本に書いてあったよ」
「元は一本の木だったのですか?それはすごい事ですね」
二人は繁々と大きな木を見上げた。オレンジ色の小花をその身にびっしりと湛える木の芳香の世界に二人はうっとりと浸っていた。そんな清子はここでロバートに尋ねた。
「では。坊ちゃま。メスの金木犀は、中国にあるのですか?」
「そうだろうな。でも。きっとこれよりも香りがしないと思うよ」
ロバートの憶測に清子はふと首を傾げた。
「それはなぜですか」
「だってさ。もしも僕が外国の使者で、自分の国の素晴らしい花を贈ろうとするならば、香りが良い方を持って行くもの」
「確かにそうですね」
……すごいわ。まだ幼いのに。色々と考えておいでだわ。
この屋敷にて家庭教師と勉強しているロバートはまだ少年であったが、彼はまだ見ぬ世界を想像する事ができていた。背が自分よりも低い少年に清子は感動していた。
……まるで、朔弥様みたいだわ。少しの情報を頼りに、この屋敷でずっと色々なことを想像しているのね。
厳しい父親を持つ彼は、劣等生と言われているが、清子の目にはロバートはとても賢い少年に見えていた。
そんな彼が作成している植物図鑑には虫や小鳥の調査も追加されていた。
「ねえ。清子」
「何でしょうか」
「あの小鳥はなんていう鳥だろうね。僕は名前を知りたいんだ」
「……清子もわからないです、渡り鳥でしょうか」
庭師の井上も関心がなくわからない鳥がいた。ロバートはこの正体を知りたがっていたため清子もこれを調べたいと思った。
「そうですね。餌を置いてそばで観察しましょうか?」
「うん!」
ロバートは屋敷に戻り、パンの屑を庭に巻こうとしていたが、清子がそれを止めた。
「待ってください!」
「え」
「よいですか?坊ちゃま。それでは他の大きな鳥も来てしまうと思いませんか」
「そうか!カラスが来ては困るな。だってカラスは小鳥をいじめるから」
神妙な顔で考え込むロバートを清子は見守っていた。
翌日、ロバートは自分で作戦を考えてきた。答えを知っていた清子は彼の作戦を楽しみにしていた。
「僕、一晩考えたよ。これを見てよ」
「……細い枝に、餌箱を置くのですね」
「うん。細い枝には小鳥しか乗れないからね」
彼はこの餌箱も自分で作ってきた。彼は木の細い枝にこれを設置しようと言った。ここで清子は助言した。
「これを置くにはどの木になさいますか」
「そうだね……どこでもいいけど」
「観察しやすい枝が良いですね」
そこまでしか言わなかった清子はロバートの自主性を尊重したかった。彼はやっとそれを見つけた。
「この木にする!これなら上に葉があるから雨でも来ることができるはずだもの。それに僕の部屋から見えるから」
「坊ちゃまは良い木を選びましたね。さあ、一緒に餌箱を置きましょう」
清子はその木にハシゴをかけて登った。下から叫ぶロバートの右だ!左だの声で大騒ぎとなったが、二人はこうして楽しく設置した。
「よーし、清子。この枝は細いから、大きなカラスはこの枝に止まれないね」
「さすがでございます!さて、早速、離れて見てみましょうね」
こうして作戦を実行した二人は観察をするようになった。すぐには集まって来なかった小鳥であったが、数日経つとだんだん餌を食べるように集まってきた。ロバートはこの鳥の絵を描き、庭仕事中の清子に見せた。
「清子。この鳥だけど。海鳥じゃないみたいだよ」
「坊ちゃまのこの絵は大変上手に描けていますが、この鳥がどのような鳥なのか調べるには情報が足りないですね」
「そうかな」
絵は確かに上手に描けているロバートは、清子の意図が知れずに首を傾げた。
「例えば……この鳥を『Wanted person』。指名手配犯だとしましょうか?坊ちゃまのこの絵だけで正体が掴めるでしょうか」
清子の優しい指摘にロバートは、はっとした顔になった。
「そうか!じゃあ。もっと情報がないとダメだよね?!ええと、鳴き声。それに、好き餌や餌を食べに来る時間、ああ、それに大きさも書かないと、これはもっと調べないとならないよ」
清子の話の意味が分かったロバートは、興奮のまま屋敷へ走り去った。少年の夢中な背中を、清子と井上は微笑んで見ていた。
この後、薔薇の枝を切っていた井上はそっと清子に尋ねた。
「お前さんは。ずいぶん。教えるのが上手だな」
「井上さん。坊ちゃまはとても優秀ですもの、私が教えることなどありません」
作業着の清子はそっとバケツの水を井上のそばまで運んだ。
「よいしょっ、と!それに。簡単に教わったことは簡単に忘れてしまいますが、自分で苦労したことは忘れないものです」
「まあな」
「それに。坊ちゃまは自分の考えがおありです。それを私は大切にして欲しいです。それにはまずご自分で動いてその結果を出さないと、自信になりません。私はそれをお助けしたいだけです」
……自分がこんな暮らしなのに。そんな心配をしておるのか。
井上は清子の気持ちを聞き、つい意地悪気味に話した。
「だがな。そんなことをしてもお前さんには関係あるまい」
「そうです。だから、坊ちゃまのご成功も私には関係ないことですよ」
不遇な少年ロバートであったが、清子は腐らず前を向いて欲しいと願い笑顔で汗を拭った。その額の汗は美しかった、
「今の私はただ……この薔薇の植え替えだけを覚えたいだけです。あの。井上さん。ここはこれで良いのですか」
「ふ。それではダメだ。それに肥料を持ってこい」
「はい!」
ロバートの応援をしながら清子もまた学んでいた。こうして清子は心健やかに、イギリス庭園の植物を夢中で手入れをしていた。
◇◇◇
『おい、ロバートはどうした?』
外出から帰ってきたワトソン領事は、上着を脱いだ。ミス吉田は慌てていた。
『はい。あの。お部屋で勉強です』
『また植物か』
呆れたワトソンはミス吉田の報告を聞いた。屋敷のことは彼女が仕切っており、妻は幼い娘にかかりきりだった。
領事のキャサリン夫人はお嬢様で慣れない日本の国で孤立していた。他の国の領事夫人との付き合いもあるが、大人しい夫人にこれは苦手。お茶会も子育てを理由に断っていた。ワトソン領事は夫人の支えもなく、業務に勤めていた。
誇り高き彼は曲がったことが大嫌いであった。ミス吉田は少々口うるさいが、自分の方針を理解しており、彼としては信用していた。
『ロバートの奴め。何がそんなに楽しくて調べておるのだ?英国紳士として、もっと学ぶべきことがあるだろう』
『はい』
『明日、家庭教師を呼べ!私が直に様子を伺う』
そういうと領事はミス吉田を部屋から出し、本国からきた書状を読んだ。日本との政治的な内容もさることながら、他の情報もあった。
……スペイン風邪か。しかし、薬もないとは。
彼が受け取った手紙の内容では、対策として口元を覆い、人との接触を避けるようにと書いてあった。
……紳士たるもの、顔を隠すなどできようか!本国ではそうかも知れぬが、この日本では誰もそんなことをしておらぬ。
プライドが高いワトソン領事は、このスペイン風邪はまだ横浜に来ないと自己判断し文書を机に放り出した。
彼が普段から接しているのは、他の領事や日本の政治家であった。それに財閥や裕福な人々が多く、彼の考えではこのような名士達はスペイン風邪とは無縁であると思っていた。
……それは船乗りや、港の酒場の者であろう。安い労働者がかかる病だ。
自分には関係ない、自分はスペイン風邪には無縁で罹るはずがない、と領事はそう判断した。この夜、彼は遅くまで書類の整理などに追われた。
翌朝。領事は息子の家庭教師を呼び出した。
『勉学の進みはどうなっておるのだ』
『はい。坊ちゃまは年齢以上の知識がおありです。音楽はまだまだですが。絵や植物採集など研究は、私が言うのも何ですが、大変素晴らしく』
『それはどうでも良いのだ!ロバートは私の後継者。もっと強い男にせねばならない』
領事はスッと立ち上がった。窓の外では秋の風が木の枝を揺らしていた。
『先生。植物採集は禁止します』
『え』
『その前にすることがあるはずだ。剣の稽古をさせます』
話を終え家庭教師が退室した後、ミス吉田がロバートを連れてきた。少年は静かに父を見ていた。
『おい。ロバート。何度も申しておるが、お前は私の長男だ。もっと強くなければならない。だから、そんな植物の絵など禁止にする』
『……ダディ。僕は勉強も剣の稽古もします。だから、植物の研究は続けます』
『お前、私に口答えをするのか?』
驚く領事に対し、ロバートは青い瞳でまっすぐ父親を見た。
『これは口答えではありません。僕の意見です』
『意見だと?生意気な』
怒りに震える領事であったが、ロバートは穏やかに続けた。
『ダディは、今。僕に強い男になれと言いました。だから僕は自分の意見を言いました』
『……お前』
『剣の稽古に行ってきます』
ロバートはそう父に告げると、挨拶をして退室した。これをミス吉田がハラハラして見ていた。
『ミス吉田。これはどういうことだ?』
『……ええとその』
『とにかく!剣の稽古だ!それ以外は部屋から出すな!』
『かしこまりました』
雷を落とした領事は怒りに頬を染め外出した。
◇◇◇
この後、ロバートは屋敷の庭にて剣の稽古をしていた。この剣のコーチは横浜にいる外国人の息子などに剣を教えていた。
今まで真剣にやっていなかったロバートであったが、彼は真剣に稽古をするようになっていた。そんな剣のコーチは隣のフランス領事の息子と一緒に稽古をしないかと提案した。
この相談を受けたワトソン領事は、彼の社交性を養う機会と思い、珍しくロバートをフランス領事の屋敷に遊びに行かせた。
こうした当日。他にも領事の子供たちが集まり、彼らは庭で練習をした。そして邸にてランチになったが、多くのも子供の中、ロバートだけは屋敷に入らなかった。
『どうした?ロバート』
フランス領事は少年ロバートに声をかけた。ロバートは庭の木を見上げながら話した。
『あの、この木は梅ですね。日本の木だ』
『よく知っているね。私はこの花が大好きなんだ』
優しいフランス領事は、ロバートの観察眼に目を細めた。
『日本では花見と言って、春の桜の花を見る行事を知ってますか?』
『もちろんだともロバート。美しいピンク色の木だね』
ロバートはうなずいた。
『でもそれは、最近の事なのです。昔の日本では、この梅の花を楽しむのを花見と言ったそうです』
『ほう。詳しいね』
『うん。僕もこっちの梅の方が先に咲くから春って感じがするから好きなんだ』
ロバートとフランス領事は一緒に梅の木を見上げていた。ロバートは目を輝かせていた。
『それにこの梅は、もうすぐ紅葉してきれいだもの。それに他にも木がたくさんある……あ?これは日本の花だ。ええと、サザンカかな』
『そう。今の季節の花だ。君は本当に詳しいね』
『うん。実はこれを』
ロバートは恥ずかしそうに自分のノートを出した。そのノートにはぎっしりと文字とイラストが書いてあった。
『これは?』
『ごめんなさい。この庭は僕の庭から見えるのでちょっとだけ調べてしまいました。この塀のところの木が僕、どうしても知りたかったんだ……』
この塀の向こうはイギリス庭園であった。ロバートは密かにフランス庭をスケッチしていたことを彼は知った。この観察力にフランス領事は俯くロバートに息を呑んだ。
『それは全然かまわないよ?……ところでロバート、確認するが。この資料は君が作ったのかい』
『うん』
子供とは思えない緻密で素晴らしい研究に、フランス領事は息を呑んだ。
『そうか。君は我が庭のこの木を調べたいのだね?いいよ、お好きにどうぞ』
『本当!やった』
ロバートは嬉しそうに木を見始めた。幹を触り木の葉を拾う彼はその匂いを嗅ぎながら、枝ぶりや足下と草花を観察していた。その仕草にフランス領事は感動していた。
……おお。素晴らしい……誰に教わったのか知らぬが、植物学者のようだ。
それに、あの真剣な目、これは大した子供だ。
夢中なロバートを見ている彼も夢中だった。こんな二人の元に係が呼びにきた。
『旦那様、ランチはどうされますか?』
『静かにしろ!?……あ。そうだ。私はここでロバートと済ませる。ここに持って参れ』
『は。はい』
木に夢中な少年を、フランス領事は邪魔をしないように彼の行動を見守った。
『……ええと。実が落ちている。これか?これはアカシヤかな?それと……あれは小鳥の巣がある……渡り鳥かな』
それでもやっと終わったロバートが気が付くと、フランス領事が自分を見ていた。彼は恥ずかしくなった。
『ご、ごめんなさい。僕、夢中になってしまって』
『なぜ謝るのだ。素晴らしいじゃないか』
『……でも』
『いいから。さあお茶にしよう』
ワトソンよりも歳が上のフランス領事はロバートの研究に笑みを浮かべていた。彼はロバートの話を聞いてくれた。
『僕は本物の庭にしたいのです』
『本物の庭とは?』
『この庭園。虫がつかないように消毒をしたりするけど、本当の庭はもっと生き物がいるはずだって思うから』
『確かに。私の故郷のフランスの庭にはキツネがいたものだな』
『ふふ。僕も生き物がいて初めて本物の庭だって思うのです。だから、今の僕の家の庭は本物じゃない。だから生き物が来る庭を研究中なんだ』
『ほお』
……目が生き生きしている。これは本物だな。
『すごいじゃないか。お父上も喜んでいるだろう?』
『いえ……あ?領事、ごちそうさまでした』
『ん?ロバート。まだ話の最中だぞ』
しかし少年は去って行った。ここにフランス領事の執事がやってきた。
『旦那様。これが落ちていましたが』
『ロバートの資料の一部だな』
精密な調べ、丁寧な絵のロバートの研究レポートを手にしたフランス領事は、ロバートの才能に驚き、そしてこれを執事に見せた。
『な?すごいだろう』
『ええ。とても子供が作った物とは思えません』
『だがな。ワトソンはあのロバートを出来損ないの弱虫と申しておるのだ。全く解せぬな』
眉を顰めるフランス領事に、執事は資料を返した。
『恐れ入りますが、ワトソン領事は政治家の御家柄。このような研究はご興味がないのでは?』
『なるほど。そうかもしれないな』
ワトソンを知る彼はロバートを不憫に思った。
『そうだ?今週の土曜日は日光の別荘で知り合った東京大学の桐嶋教授に会う約束だった。よーし』
『旦那様?』
『ふふ。彼は日本における植物研究の第一人者だよ』
嬉しそうなフランス領事はこのノートを大事にしまった。その目線の先の庭では、ロバートが剣を振るっていた。
フランス領事が自分を優しい目で見ているとは知らないロバートは、必死に同世代の少年たちと訓練していた。
その夜。自宅に戻ったロバートはノートを一枚失ったことに気が付いたが、思い出して書ける内容だった。こうして父親のいう通りにしていたロバートであったが、やはりロバートの態度が気にいらない領事官はロバートを部屋から出ぬように禁じた。
寂しく夜の窓を叩く北の風の屋敷のロバートは、清子の勧めでラジオを聞くようになっていた。彼は主に音楽を聴いていた。そんなラジオの内容はスペイン風邪のニュース。日本語の放送がよく理解できていないロバートのその手は、ひたすら植物の絵を描いていた。
こうして部屋に閉じ込められていたロバートは、ある朝、誰も食事を持ってきてくれないことに気が付いた。
「ミス吉田?あ、あれ」
昨夜、廊下に出した食器がそのままだった。恐る恐る部屋を進むと、そこでは屋敷中の使用人達が、倒れていた。
『マミィ?どこ』
『……ロバート。来てはダメよ』
母は父のベッドの横で看病していた。
『お前は部屋に戻りなさい』
『え』
『みんな熱が出て?ゴホゴホ!』
……大変だ!?
母は父のベッドの傍らで倒れ、廊下ではメイド達が倒れているこの状態を見たロバートは、気が付けば馬小屋に走っていた。
完
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