七 高熱の館

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七 高熱の館

「清子!ねえ!開けて!お願い!」 「まあ?坊ちゃま」  早朝、すでに庭で草取りを始めていた清子は、馬小屋の戸を乱暴に叩く音に驚き駆け付けた。そこには額に汗をかいたロバートがいた。興奮している彼の寝巻き姿を見た清子は、この緊急性を瞬時に理解した。 「坊ちゃま。お屋敷で何があったのですか?」  ロバートの腕を優しく包んだ清子は、小屋の前の芝生に膝を付き、彼と目線を合わせた。彼は必死に話した。   「みんな。みんな倒れているんだ!マミィはこっちに来るなって」 「倒れている?それに、こっちに来るなって」 ……まさか。スペイン風邪?  ラジオでこの病の情報を知っていた清子は、一瞬背中がゾッとした。 「ねえ。清子!あの」 「お待ちください……そうだ。坊ちゃまは?」  清子は彼の額を触った。熱は平熱だったロバートにほっとした清子は彼を抱きしめた。 「大丈夫。熱はないです。でもどうして坊ちゃまだけが」 「僕ね。誰にも会うなって。部屋に閉じ込められていたんだ」 「まあ?それでこの頃、お庭に来なかったのですね」  最近、彼を見かけていなかった清子は、彼が部屋で勉強していると思っていた。しかし、今はそれどころではなかった。 ……でも。そのおかげで坊ちゃまは、スペイン風邪にならずに済んだのかもしれないわ。  清子が見上げたこの領事館は、領事の家族とたくさんの女中がいた。そんな彼らは誰一人として感染防止のためのマスクをしていなかった。  マスクをしているのは、顔を隠す目的の清子だけであった。しかも最近の清子は食事も指定の場所に置いてあるだけで、みんなに避けられていた。   庭師の清子は基本、屋外で井上とロバートに会うくらいであり、他人と会わない暮らしをしていた。 「ねえ、清子!どうしよう?みんな死んでしまうの?」 「まず、落ち着きましょう。坊ちゃまにお伝えしたいことがあります」  清子は不安がるロバートにスペイン風邪を説明した。変に誤魔化してもかえって彼もかかってしまう事を清子は恐れていた。まず清子は、街では病が流行っていると教えた。 「この流行り風邪は、人にうつりやすく、熱が出て咳が出るものです」 「お薬はないの?」 「ないです。乗り切るしかないのです」 「じゃあ。みんなはどうなるの」  泣き出しそうなロバートは不安でいっぱいだった。そんな二人の元に、井上老人がやってきた。清子は事情を話した。 「まさかその風邪が?確かに巷ではチラホラ聞くが。そうか。では屋敷の中は全滅か」 「まだそれとは限りませんが」  弱り顔の井上もそっと屋敷の窓を見上げた。清子は不安そうなロバートの手を握った。 「井上さん。私、お屋敷の様子を見てきますので、今日はどうか坊ちゃまをご自宅で預かってもらえませんか?」 「え。清子。僕は平気だよ」  ……今は平気でも。移る可能性があるわ。  大事な彼を、清子はどんなことをしても守りたかった。 「それはもちろんです。それにもしかしたら、これは悪戯(いたずら)かもしれませんもの」 「悪戯?みんなで?」 「そうです。だから清子が確認するまで、井上さんのお家で遊んできてくださいませ」 「でも……僕……」  家族を心配するロバートの優しい心が痛むのを見た清子は、それでも彼を説得した。ここで井上は、思い出したように手を叩いた。 「そうだ?!坊ちゃま。実は先日、井上の家に子猫が生まれたのですぞ」 「え?子猫?」  動物が好きな彼の好奇心の目に、清子も井上もうなづいた。 「まあ。井上さん。子猫ですか。可愛いでしょうね」 「そうです。前から坊ちゃまに紹介したいと思っておりまして」 「でも……」  もうひと押しのロバートに、井上が最後の技を使った。 「坊ちゃま。まだ子猫には名前がないのです。ぜひ良い名を付けてくだされ」 「名前か」 「そうですよ!名前がないのは可哀そうですもの。さ、坊ちゃま。その恰好のままでいいですから行きましょう」  こうして清子は、彼らを送り出した。井上とは屋敷の内部を夕刻まで確認し電話をすると約束した。そんな清子は覚悟を決めた。そして勇気を出し、屋敷の勝手口から入った。 「失礼します。庭師の清子です」  やはり返事はない今のこの状態に、清子はスペイン風邪の想定で行くと決めた。 ……ええと。同じ空気を吸わないようにしないと。  清子はラジオにてスペイン風邪の対策を聞いていた。まずはその通りにしてみようと思った。  顔にはマスクをしっかり付けた。そして入った部屋から、窓を片端から開いた。乾いた秋風が廊下を突き抜けていた。すると、うめき声がした。 「……き、清子」 「ミミ子さん……みなさんは?」  メイド服のミミ子は居間のソファで倒れていた。清子は駆け寄った。 「どうされたのですか?」 「みんな熱で……私も看病していたら、今朝」 「ミミ子さん、しっかり!?まあ、なんて熱」  そして各部屋を見ると、そこでは女中たちがベッドで寝込んでいた。咳き込み、汗だくの顔の彼女達を発見した清子は、まず全員の病状を調べた。 「ミス吉田。しっかりなさって」 「うう。お前は……清子」  使命感からか、ミス吉田はベッドではなく、彼女の執務室のソファで横たえていた。清子はまずこの部屋の窓を開け、彼女に水を飲ませた。 「熱はいつからですか?今、皆さんの状態を調べています」 「お前などに……助けられるとは」  悔しそうなミス吉田は髪を乱し、薄い眉も消えかけていた。それでも清子に応じ、自らの病状を伝えた。 「ではミス吉田、復唱します。熱は二日前からで今のお熱は39度。食欲は無し、でも元気は……ありますね」 「それよりも。はあはあ……医者を呼びなさい。そして私たちよりも領事の家族を、う?ごほごほ!」  清子は会釈をし、指示された通り医者を電話で呼んだ。そしてさらに屋敷の部屋を確認すると、夫人と幼い娘がベッドで寝込んでいた。 『マダム。お加減はいかがですか』  この二人は比較的、熱が低かった。二人の手当てをした清子は、さらに奥の領事の寝室を開けた。その大きなベッドの床にクマが倒れていた。その様子に清子は思わず悲鳴を上げた。 「クマさん。ここではいけません。さあ。クマさんの部屋に行きましょう」 「わ、わかった。はあ、はあ」  高熱で体重過多のクマを何とか彼女の部屋に連れて行った清子は、領事の寝室に戻った。彼は大汗をかいていた。 『領事。お水です』 『……』  寝言は英語だった。彼は高熱にうなされて清子を誰とはわかっていなかった。顔に痣がある清子には好都合だった。 『さあ、お水を飲んでください、領事、しっかりなさって』  清子は彼になんとか飲ませた。そして、汗だくで寒がる彼の寝間着を取り替え、布団をかけた。この時、医者が到着した。  清子から話を聞いた医師はスペイン風邪と診断した。 「熱の対応もこれで良いでしょう。ところで、全員の容態を確認したのは非常に助かりました。あの、君はどこかで医学を学んだのですか?」 「いいえ。でも調べておいた方がお医者様に早く診ていただけると思って」  やってきた医者は、全員の症状をまとめておいた清子に感心しつつ説明をした。 「まだ原因ははっきりしませんが。あなただけは庭で別の暮らしをされていたのでうつらなかった可能性があります。しかもそのようにマスクをしていたので、スペイン風邪にかかっていないようですね」 「先生。私のことは良いのです。お屋敷の人たちを助けてください」 すると医者は黒鞄から袋を出した。 「これは熱冷ましの薬です。この病は治す薬がないのです。とにかく水を飲ませてください」 「……熱はどれくらい続きますか」 「五日です。それまで体力が持てば治ります。それ以上は……すみませんが、私はこれで」  他にも患者がいる医師は忙しく帰って行った。清子はたった一人でこの屋敷の全員の看護にあたった。 『今日は、何日だ、私が寝込んで』 『四日です』 『……そんなに経ったのか。仕事がたくさんあったのに』 『黒田様はご無事でしたので、代わりに対応されています』  ベッドから身を起こした領事に清子は答えた。庭師の格好は許せないとミス吉田に言われた清子は、言われた通り、顔にマスクを付け、女中の服を着ていた。熱が覚めたばかりの領事は英語が少し話せる清子の事を女中の一人と思っていた。 『電話があったはずだが』 『はい。おやすみ中、お電話がありましたが、全てお名前を伺っています』『私の病の事を話したのか』 『いいえ。ただ外出していると言いました』 『それならいいが。それにキャサリンと子供たちはどうした』    清子は婦人と娘は回復してきた事と、ロバートは井上の家にいると説明した。 『奥様もお嬢様も、先ほどリンゴを召し上がりました』 『そうか』  ここで領事は、ふと清子の顔を見つめた。 『お前は?顔をぶつけたのか』  見られないように仕事をするように指示されている清子は慌てて下がった。 『平気です。あのどうぞお休みください。私はこれで、失礼します』 『あ、ああ』 ……よかった。熱が下がって。さあ、夕食を作らないと。  最初に罹ったのはワトソン領事の様子。そのため治るのも彼が早かった。清子は台所にやってきた。そしてみんなのスープを作っていた。  全員の食事の支度と汗をかいた服の洗濯。それに寝ずの看病。時には高熱でうなされた女中のそばにいた夜もあった。この四日間。清子は休みなく屋敷の人間のために勤めていた。  この日、清子は台所にあった材料でスープを作った。 「ミス吉田。スープができました」 「おお。お前のような娘の食事を食べなくてはならないとは?……今回は仕方なく許可しましたが。しかし、お前が台所を使うなど、あってはならないことです」 「恐れ入ります」  謝りながら清子は寝込んでいる女中たちに食事を配っていた。今まで清子を冷遇していた女中達は、彼女の優しさと全員を看護する有能さを知った。 「ミミ子さん。頭痛はどうですか」 「やっと落ち着いてきたから、シャワーを浴びたいと思って」 「……でも、まだふらついていますよね。お風呂場で転ぶのが心配だわ」 「平気よ、あ?」  そういってふらついているミミ子を、清子が支えた。 「だめです。明日まで我慢しましょう。今、蒸しタオルを持ってくるので」 「うう」 「ミミ子さん。我慢した分、明日のシャワーは気分がいいですよ。ね」  そうミミ子を励ました清子は、クマが寝ている部屋にやって来た。 「遅い!私を餓死させる気か!」 「お食事がここにありますが、クマさんはお腹を壊しているので、まだこれです」 「また粥か」  しかもこれは薄い粥であり、ほとんど汁だった。清子は医者の指示でクマには食べ物を与えなかった。この思いを知らずにクマは八つ当たりをしてきた。 「これは飲み物じゃねえか!いいから私に食い物をもってこい」 「クマさんはまだ熱が下がりません。クマさんが治らないと、みなさんも回復しません。ここは我慢してください」 「ううう。くそ!」  立腹のクマは忌々しいと言い、この粥の皿を杯のように口をつけ、飲み物のように一気に煽った。 「うげ?熱ぃ!げごげほ」 「熱いのを持って来いとおしゃっていたので。それは相当熱いはずです……大丈夫ですか?お水を」 「寄越せ!」  しかし、クマは口の中をやけどしたようで、何も話さなくなった。しかしこんな悪態はクマだけで。他のメイド達は清子に感謝してくれた。  中でも症状が軽かった領事夫人のキャサリンは清子という存在を知らずにいたので大変驚いていたが、ロバートを守り、そして懸命な看護をその目にした。夫人は涙を流して感謝してくれた。  しかし、清子はただの庭師であり、屋敷で女中をすることなど許されていない存在であった。清子は夫人にも多くを語らず世話だけをした。  このイギリス領事館の全ての人達はこうした清子の献身的な看護より、一週間で全員が全快となった。ミス吉田の完全復活を見届けた清子は、メイド服を脱ぐと、また庭師の作業着を身に着け庭仕事に戻った。 ◇◇◇ 『ミス吉田』 『はい。旦那様』  元気になり通常生活に戻った領事は、全快したミス吉田に問いかけた。 『あの娘は何者だ?あんな顔に痣がある女中が我が屋敷にいたのか?』 『旦那様。それは熱で夢をご覧になったのではありませんか?』  ミス吉田は清子の存在を必死に抹殺しようとした。ここで、ロバートが部屋に入ってきた。彼は父親に悲しい目を向けていた。 『ダディ。もう、清子を虐めないで』 『清子?……それに虐める?』  領事は意味が分からず息子をみた。しかしミス吉田は青ざめ、わなわなと震え出した。 『そうだよ!ダディは嘘付だ』  領事は息子の話を驚きの顔で聞いていた。 『清子の顔が青いから。ダディはあんな馬小屋に住まわせているんだ!それなのに、それなのに!……清子は僕たちを助けてくれたんだよ?僕に勉強を教えてくれたんだよ!』 『お前……』  目に涙を浮かべ肩を震わせる息子を、領事は目を見開いていた。 『ダディはみんなの悪いところしか言わない。でも清子は違う。みんなの良いところを言ってくれる。そして、自分をいじめた人を助けたんだ』 『待て。ロバート。あの青あざの娘は清子と言うのか』 『うん』 『しかし、馬小屋とは……ミス吉田!』 『は。はい!』 『私はそんな話は聞いておらぬ。これはどう言うことだ』  書斎にいたミス吉田は話の最中に退室しようとして間に合わなかった。扉の前で呼び止められた。 『は、はい……あのですね』  ミス吉田が慌てている間にロバートは背後からノートを取り出し、そしてこれを父親に渡した。 『これは?』 『僕の研究……ダディが認めてくれなくても。僕の研究をみんなは認めてくれたよ』 『これを?』  自分が馬鹿にした植物研究のレポートを差し出した息子はじっと父を見つめた。 『ダディ。これでもまだ僕はダメ人間なの?そして清子も虐めるの?』 『……ロバート』  息子、涙目で見ていた。 『ダディは僕に言ったよ。本当の紳士は困っている人や頑張っている人を助けるって。でも、ダディは違う。僕や清子をいじめて楽しんでいる。そんなのは紳士じゃない!ダディは紳士じゃないーー!』  初めて父親に反抗したロバートは、夢中で部屋を飛び出していた。そして馬小屋にやってきた。 「清子!」 「まあ?坊ちゃま。どうされたのですか?」 「清子……うう」  泣いて清子に抱きつくロバートのようすに清子はまた何かあったと思い、彼を優しく抱きしめた。 「……さあ、今日はですね。清子は栗を拾いまして。それを茹でているのです。お砂糖がないので味は薄味ですが、もうすぐできますよ」 「栗?」 「ええ。好きですか」 「うん……好きだよ。でも、剥いてくれないと、僕、食べてあげないよ」 「まあ?もちろん剥きますよ?清子はね。栗を剥くのが得意なのですよ……」  清子の優しいまなざしに包まれたロバートは素直にうなづき椅子に座った。窓の外は冷たい北風が木の葉を散らしていたが、馬小屋の中は、こんなにも暖かかった。 七話「高熱の館」完  
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