八 英国紳士

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「坊ちゃま。大丈夫です。行ってきます」 ……お屋敷のみなさんに迷惑をかけられないわ。  警察と聞いて心当たりがある清子は、クマの指示に素直に従った。不安そうなロバートに、そっと微笑んだ清子であったが、屋敷に入った時はその笑顔は無く、嬉しそうに前を歩くクマの背中を見ながら廊下を進んだ。  そして入った応接室には、ワトソン領事と警察関係らしき男性が二名と、通訳の黒田が話し合っていた。困惑している領事と黒田の様子に清子の胸が痛んだ。そして黒田は清子を黒い背広の警察関係者に紹介した。 「清子君。こちらは警察の人だ。なにがあったのか説明してくれ」 「はい。黒田さん」  ここで警官が清子に目線を向けた。 「お前が青痣娘だな」  二人は鋭い目付きで清子に詰問した。 「おい貴様。先日、トラックの事故現場にいたであろう」 「港町商店街のはずれの信号のところだ」  鋭い指摘の警察官の前に立っていた清子は嘘を言えなかった。 「はい」 「お前、その時、トラックを運転したな」 「目撃者がいるんだぞ」 「……はい、申し訳ありませんでした」  清子は頭を下げた。 ……ああ。やはり見つかってしまったわ。    自動車の運転の資格がない清子は、事故の救出とはいえ、罪は罪だと思った。清子は黒田が領事に通訳を終えた時、警察官に向かった。 「本当に申し訳ありませんでした。ですが。それは私が悪いのであって、このお屋敷の人には関係ありません」  ここで領事が英語で尋ねたため、黒田が訳した。 「『清子。君がロバートと仲良くしてくれているのは知っている。君は本当に勝手にトラックを運転し、タイヤを壊したのか』とおっしゃっています」 「はい。申し訳ありませんでした」  困惑している領事に心から申し訳なく思う清子の謝る姿に、警察は厳しく彼女を見た。 「青痣よ。お前がした事は重罪であるぞ」  警察官は清子を叱責した。 「この屋敷で働いておるが、お前は日本人だ!罪から逃れられると思ったら大間違いだぞ」 「それにだ。お前がここで働くようになってから、屋敷の品が無くなっているそうじゃないか」 「それは、私は知りません。違います!」  しかし、この時、応接室にクマが入って来た。 「領事様。ご覧ください。青痣は馬小屋に金を隠していました!他にも奥様のブローチもありました!」 「それは」  クマが手にしていたのは、タバコ屋さんのおばさんがくれたお金が入った封筒だった。そして美しいブローチは、清子が見たことがない品だった。ここにミス吉田も現れた。 「なんということでしょう。温情でお前をここにおいてやったのに。恩を仇で返すとはこの事ざます」 「ミス吉田の言う通りです。早くその泥棒女を牢屋に入れてください!」  ……ああ。これはもう……  この着せられた濡れ衣はあまりにも巧みできており、今の清子には脱げそうに思えなかった。そして黒田の通訳を聞く領事の困惑した姿に、清子の胸が締め付けられた。  清子はトラックの運転をしてしまったが、それ以外は事実無根である。しかし、今それをここでどんなに叫んでも、立証するものはないと悟っていた。  そんな清子に、周りの人たちが怒りの目で怒鳴ってきたが、不思議と何も聞こえなくなった。 ……ああ、そうだった。いつも叱られている時、私はこうして白い部屋に入っていたわ。  かつて青痣のせいで折檻されていた時、清子は外部を拒絶し、何もない白い心の部屋に入っていた。虐められているのはもう一人の清子で、本当の清子はいつもここにいて、嵐が過ぎるのを膝を抱えて待っていた。今はまたその白い部屋に清子は入っていた。しかし、そこには他の人がいた。  ……朔弥様?朔弥様なのですね。  そこには、背を向けたあの人がいた。彼は何も言わずただ紙細工を作っていた。清子は懐かしいその背中をただ見ていた。  ……そうよね。私には大切にしたい思い出があるもの……  彼は振り向きもせず、ただそこにいた。それはもう会えない愛しい人だった。しかし、こうして心にいてくれることが清子は嬉しかった。 「おい、お前!聞いているのか」 「は、はい」  突然、腕を掴まれ、現実に呼び戻された清子は、警官の背後の窓の外が見えた。そこにはロバートと一緒に置いた鳥の巣箱が見えた。 「おい。聞いているのか」 「そうですね。ご迷惑を掛けられません」 ……坊ちゃまは、もう私がいなくても大丈夫よ。 「青痣、貴様」 「手を放していただけますか?私は逃げも隠れもしませんので」  清子の毅然とした態度に、思わず警官は手を離した。静まり返った部屋で、清子ははっきり話した。 「私は警察に行きます。でもその前に支度をさせて下さい」 「支度とはなんだ!」 「仕事が途中なのです。これ以上お屋敷に迷惑を掛けられません。この通りです」  あまりの低姿勢に警察はこれを許可した。移動した馬小屋にはクマは見張りに付いてきた。 「ひひ。これでお前さんもおしまいだね」 「ええと。これはこれでいいか。あと、そうだ。坊ちゃまに蜜の場所を、と」  仕事の引継ぎを急いでノートに書いた清子は、クマを気に留めず作業着を脱ぎ、来た時の着物に着替えた。それをクマは不思議そうに見ていたが、清子は最後に風呂敷包みを手にした。 「さあ、これで良いです。お待たせしました」 「ああ」  晴れ晴れした顔の清子はこうして、警官の前に戻って来た。そこではワトソン領事と黒田が清子を待っていた。清子はまっすぐ挨拶した。 「ワトソン領事。短い間でしたが、本当にお世話になりました」 丁寧に頭を下げる清子を、領事と黒田は驚きで目を見開いた。 「警察の方、参りましょう」 「そうだな。こっちだ」  こうして清子は白亜の館を警察官と一緒に出て行った。清子は一瞬、振り返り館を見上げた。そこには窓ガラスの向こうは泣き顔のロバートが見えた。清子は少年を励ますように微笑んで去った。  木枯らしの丘に建つ白亜の館の門をくぐった清子は、遠くに見える海に目を細めていた。その夕日に照らされた顔は、彼女の心のように清らかであった。 ◇◇◇ 『あなた!清子はどこに行ったのですか』 『キャサリン。私も訳が分からぬ』  清子が連行されたことをロバートから聞いたキャサリンは、黒田から事情を聞いた。これにワトソンは苛立ちながら部屋を歩き出した。 『キャサリン。清子は事故現場でトラックを運転したことを認めたのだ。だから自ら警察に行ったのだよ』 『あなた。なぜ理由も聞かずに行かせてしまったのですか』  普段はおとなしく、夫に意見など言わない彼女は、はっきり夫に言った。 『どういう意味だ』 『清子は私たちを助けてくれた娘です。それに、私には清子が理由もなく罪を犯す考えられません』 『お前、どうしたのだ。そこまで』  夫人は大粒の涙を流した。 『だって。彼女は荷物を持って出て行ったじゃありませんか?清子はもう、ここには戻ってこないつもりです』 『そんなバカな?彼女は手荷物だけだったぞ?』 『ロバートが言っていました。……あれが、あれが彼女の全てなのです。清子にはあれしかないのです』  夫人は夫に懇願した。 『あなた、お願いです。清子を助けてください。お願い!……』  縋るキャサリンを彼は見下ろした。 『キャサリン。お前はなぜ、そこまであの娘を庇うのだ』 『スペイン風邪のことをお忘れですか?それに、函館の領事夫人から手紙が来ました。清子は彼女達の息子を命懸けで助けた娘です。あなた。どうか見捨てるなんて酷いことをなさらないで!』 『お前』 『……あなたが行かないのであれば、私が連れ戻します』 『わかった!黒田、呼び戻せ』  ワトソン領事は黒田を呼んだ。そしてまだ車にいた清子を、慌てて下した。 「黒田さんとやら。これはいったいどういう事ですかな」 「恐れ入りますが、この敷地はイギリス領事の支配にあります。よって、その娘の処遇は、一旦こちらで調べる事になりました。この件は改めて連絡します。さあ、清子君。戻りなさい」 「……はい」  こうして不貞腐れている警察の元から、清子は戻って来た。驚きながら戻ってきた清子は、領事の部屋に通された。 「さて、詳しく聞こうか」 「……はい」  こうして清子は事故の説明をした。この真相を聞いた黒田は、事故を起こしたトラックの運転手は罪を清子になすりつけようとしていると推測した。 「清子君はどう思う?」 「そういえば私は、あの運転手さんに声を掛けましたが、お酒の匂いがしましたね」 「やはりな」  清子は他にもタイヤをパンクさせた経緯を話した。そして持っていたお金の事も正直に話した。領事は黒田の通訳をじっくり聞いていた。 「あとはですね。私、あのブローチは全く知りません」 「清子君、それはこちらで調べるそうです」 「では領事。私はいつ、警察に行くのですか?」  真剣な清子の瞳に、領事は目を伏せた。そして黒田に伝えた。 「清子君。それもこちらで指示するそうです。とにかく君は今の仕事に戻れ、という指示です」 「は、はい。お心に感謝します」 ……てっきり首だと思ったのに、どういうことかしら。  拍子抜けの清子が応接間出てて、廊下を歩いていると、ロバートと夫人と幼い娘に出会った。 「清子!よかった」 「おお。キヨコ」 ロバートと夫人は清子を抱きしめた。清子は困惑した。 「坊ちゃま、奥様、これは」 「清子、どこにもいかないで」 『神よ、感謝します……』 「……あ、ありがとうございます」  涙を浮かべて抱き合う三人であったが、ここで幼い娘が清子の着物の裾を引いた。 「ねえ。清子。どうして私と遊んでくれないの?」 「まあ、お嬢様は日本語がお上手ですね」 「ロバートとばかりでずるい」 「アンナ。僕は清子と勉強しているの!」  兄妹喧嘩が始まったが、夫人は微笑んでいた。 『清子。どうか二人と遊んでくれませんか?』 『もちろんです。さあ、お二人とも清子と遊びましょう』  二人の顔はパッとひまわりのように明るくなった。これを見た清子も嬉しくなった。その後、トラックの事故は清子と無関係と処理された。馬小屋にあった金銭とブローチについても清子の主張が認められ不問となった。  そして清子はミス吉田に言われ、メイド服を着て屋敷の中で仕事をするようになった。メインの仕事は相変わらず庭仕事であるが、冬になりすることが減っていた。小屋も寒いであろうと言うことになり、清子は屋敷内の部屋に住むことになった。  日が短くなったこの季節、窓から見える木は冷たい風に揺れていたが、清子の心は暖かった。 九話「英国紳士」完
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