九 居場所

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九 居場所

 夕暮れの晩秋。函館の八幡坂の街路樹は葉を落とし、秋から冬へ衣替えを済ませていた。歩く石畳もどこか冷たく、彼のブーツの音を堅く鳴らしていた。背を押す海風にコートの襟を立てながら歩く岩倉朔弥は、坂の中腹にある自宅に帰って来た。 「ただいま帰った」 「おかえりなさいませ。あの、朔弥様、この手紙が先ほど届きました」 「……『岩倉清子様』」  この封書を受け取った朔弥は、まずは自室で服を着替えた。そして、夕食前の自室の机でこの手紙の封を破った。中には手紙が入っていた。 『清子ちゃんへ 燃料屋のミイです。突然の手紙でごめんなさい』  その内容を読み終えた朔弥は思わず目をつむった。そして夕食時に、朔弥は手紙を瀧川に見せた。瀧川は燃料屋のミイは清子の幼馴染であり、今は函館の遊郭の大門一の花魁の椿であると、清子から聞いていた。今回の手紙はそのミイからの手紙と彼女も理解した。 「それは知っていますけど、この『霜月廿日に、八幡宮で一緒にいた事にしてね』とは、どういう意味ですか」 「……理由はわからぬが、その娘はその日『清子と一緒にいた』ということにしたいのであろうな」 「どうも気味が悪いですね。それに清子様はここにはいませんし」 「ああ。そのミイという娘はそれを知らぬのであろうな」  食後、独り部屋で紙細工を作っていた朔弥は、ミイの手紙を気にしていた。 ……もしも清子がここにいて、この手紙を受け取ったとしたら、私に相談したはずだ。そして私は……  関わるな、と清子に助言したと彼は思った。そんな朔弥は思わず立ち上がった。そして窓の外の夜の星を見た。 ……清子。お前なら、何と申すであろうな……  窓ガラスは美しく冷たかった。見上げた星空に朔弥はいつのまにか微笑んでいた。  翌日。朔弥は近藤を伴い、とある場所にやって来た。 「ほ、本当に入るのかよ、ここに」 「別に。ただ話を聞くだけだ」 「しかし」  煌びやかな花街を朔弥はすたすたと進み大門をくぐった。及び腰で続く近藤であったが、朔弥は構わず進んだ。そして椿がいる遊郭にやってきた。 「ようこそ。旦那様、私はここの女将です」 「岩倉貿易の岩倉です」 「存じております。お父様にはお世話になっていますので」  そんな朔弥と近藤は、女将の勧めで奥の部屋に通された。通常は何度も通わなければ通されぬ部屋であったが、それを可能にした父に彼は心の中で感謝していた。 「それにしても来て下さるとは嬉しいです。今夜はぜひ楽しんでくださいませ」 「女将。実は今夜は、相談があって参りました」  朔弥はそういって、座布団に胡坐をかいた。 「私は函館の首長から、ここ函館の繁栄について新たな企画をするように頼まれておりまして」  この朔弥の真顔の話を、女将は真剣に聞き入っていた。そして彼は函館の観光の参考するために、花魁の意見を聞きたいと語った。 「できれば一番人気の方と話がしたいのです」 「そうなると、椿ですね」  考え込む女将であったが、短い時間で済むという朔弥の言葉を受け、椿を呼びに行った。待っている間、隣の部屋からは三味線の音色と、酔った男たちの戯言が聞こえていた。近藤はハラハラ顔で朔弥の肩を叩いた。 「朔弥。本当に大丈夫なんだよな」 「それはお前次第だ」 「そんなこと言うなよ、あ」  ここで、彼女が入って来た。その煌びやかな姿に近藤は頬を染めたが、朔弥だけは黙って酒を飲んでいた。目を伏せていた椿は恭しく挨拶をした。 「お初にお目にかかります、私、椿と申します。以後、お見知りおきを」 「挨拶はよい。私は清子の代理で参った岩倉だ」 「え、清子って、あなたは」  献湯式にて朔弥を見たことがある椿は驚いていた。その時、朔弥は近藤の脇腹をつついた。 「正孝。悪いが廊下で見張っていてくれ」 「俺もその方が気楽だよ。では」  近藤が襖を締めた部屋は、隣の部屋の騒ぎが響いていた。ここで朔弥は口を開いた。 「時間がないので本筋に入る。実は清子は訳合って留守をしておるのでな、君の手紙を代わりに読ませてもらった」 「そうですか」  椿は寂しそうに、タバコを手にした。朔弥は話をつづけた。 「それを確認しに来たのだが、君は何かしようとしているのではないか」 「すみません、巻き込んでしまって」  椿は悲しくタバコを吸った。 「その手紙はもう忘れてくださいよ、旦那」 「そうもいかないさ」  朔弥は手酌で酒を飲んだ。 「君はあの手紙の指定した日に、何かをしようとしているのではないかな。例えば」 「例えば?」  化粧の顔で問い返すミイの瞳に、朔弥は憂いを感じ取った。 「そう、例えば、人殺しなど」 「ふ!さすが清子ちゃんの旦那だ」  自虐的に笑うミイはそういって酒を煽った。 「ははは!こいつは傑作だよ。やる前から失敗だとはね」 「君」 「はははは……バカで、どうしようも、ないよ」  最後は涙声のミイに朔弥はため息まじりで向かった。 「ミイ。私は清子の代わりに参ったのだ。だからお前の話を聞かせてくれないか」 「旦那に……でも」 「廊下に私の部下がいるし、秘密は守る。それに、時間があまりないぞ」  懐中時計を見た朔弥に、ミイは息を呑んだ。そして心打ち明けた。これを聞いた朔弥は、近藤と遊郭を後にした。 ◇◇◇  翌朝。朔弥は下屋敷で近藤にミイの話をした。それは彼女の見受けに関係するものだった。 「彼女を身請けして嫁にしたいという男が二名いるそうだ。彼女としては、その一人の肥料屋の旦那がいいそうだが、遊郭の女将がもう一方の男に決めてしまったそうだ」 「もしかしてそれは」 「ああ。白永だそうだ。不動産の」  湯の川温泉で白永に清子を侮辱されたことがある朔弥は、今頃になって立腹していた。そしてその時現場にいた近藤も当時の事を思い出していた。 「そうか。あの時から白永氏は、彼女に惚れこんでいたのだな」 「そのようだ」  肥料屋の旦那と両想いのミイは、彼との暮らしを懇願したが、女将は地元の有力者の白永を選んでしまったと朔弥は語った。 「それに。肥料屋の旦那は年末にならねばまとまった金ができぬそうだ。しかし白永はすでに手付金を女将に払っているようだ。だから彼女は思い切って白永氏を」 「恐ろしい……」 「ああ。恐ろしいことだよ」  近藤はミイの殺意を怖がっていたが、朔弥は違っていた。 ……それほどまで、あの娘は追い詰められていたのだ。  そして清子に無実証明(アリバイ)を頼んだミイの愛に生きようとする心が、愚かしくも悲しく、恐ろしくも清らかに思えてきた。こうしてうつむく朔弥に近藤が問いかけた。 「で。どうするのさ」 「あ、ああそうだった」  朔弥はざっと作戦を語った。これを聞いた近藤はうなづいた。 「わかった。俺が調べるよ」 「悪いな」 「いいんだ。それにしても、お前も変わったな」  そういって近藤は立ち上がった。 「以前のお前なら『関係ない』で済ませたのに」 「俺もそう思う」 「ははは。とにかく調べておくから」 「すまないな。正孝」  笑顔で去った近藤に朔弥も笑顔を見せた。そんな朔弥は机の上の清子の写真を見た。  ……清子よ、とにかくできることをやってみるから、そこで見守っておくれ。  胸にそう誓った朔弥は写真におでこをコツンと付けた。写真は何も言わなかったが、彼の心は温かかった。 ◇◇◇  その数日後、朔弥は岩倉ビルの社長室で近藤と相談していた。 「そうか。この一帯は白永氏が土地を所有しているのか」 「兄上、何の話ですか」  朔弥は白永の資産を調べていた。この時に入って来た哲嗣は、この土地を知っていると話した。 「それはどういうことだ」 「兄上、今、函館に内地の百貨店が出店する話があって、その土地を探しているはずなんだ。白永さんは内地の会社と取引をしているからもしかして白永不動産は、ここ一帯を買い占めて百貨店の用地するつもりなのかもしれないよ」 「正孝。それについて調べられるか」 「百貨店の出店なら、わかると思う、ちょっと出かけてくる」  近藤は風のように部屋を出て行った。残った朔弥と哲嗣は、函館の街の地図を見ていた。 「哲嗣、その話が本当ならば、土地の買い占めはこれで終わりになるのか」 「店舗としても面積は十分だけど。道はどうかな」 「道」  哲嗣が言ったのは、その土地に行き来する道路だった。哲嗣の指摘によれば、この道幅では狭すぎるということだった。 「確かに狭いな」 「普通の車は平気だけど、搬入のトラックはこれでは無理だね」 「哲嗣。でかしたぞ」 「え」 「そうか、その手があったか」  朔弥はうーんと伸びをした。哲嗣は兄の様子に首をかしげていた。 「さあて、と。ではさっそくやってみるか。哲嗣、ありがとうな」  晴れ晴れとした顔の朔弥はこうして作戦を進めた。そして一か月後、岩倉下屋敷に一人の女が挨拶にやって来た。家にいた朔弥は対応した。 「旦那のおかげで、こうやって生きることができています」 「別に私は何もしておらぬが」 「いいえ。私は聞きました」  娘姿に戻ったミイは下げていた涙の顔を上げた。 「白永の旦那は言っていました。せっかく土地を買い占めたのに、そこに出入りする土地を岩倉様に買われてしまったと」 「人聞きが悪いな」 「すみません!でも白永の旦那は、そこを買い戻さないと意味がないと言って、それでお金が足りないので、私の身請けの手付金を返せって怒鳴り込んできたんです」 「では、身請け話は白紙になったのだな」 「はい。おかげさまで、こうして肥料屋さんに行けることになりました」 「左様か」  ほっとしたような朔弥にミイは再び土下座をした。 「本当にありがとうございました」 「椿よ、いや。ミイ、であったな。私に礼などいらぬぞ」 「でも」 「私は清子の代わりと申したであろう。その気持ちはどうか清子にむけてやってくれ」 「岩倉の旦那……」  清子が不在であると最近知った彼女は、朔弥の言葉に涙が出た。 「はい。私こそ、清子ちゃんの友達でいられるように、頑張ります」 「ああ」  そして涙を拭いた彼女は挨拶をして下屋敷を去っていった。 「お疲れ様でしたね」 「別に。それにしても寒くないか」 「そうですね。あ」  気が付くと窓から見える庭に粉雪が落ちていた。この白い世界に朔弥は思わず窓辺によった。 「初雪か、そんな季節か」 「うう、寒い!そうだ甘酒を温めるんだった」  そう言って台所に行った瀧川を尻目に、彼は庭に出た。空から落ちる白い羽を見ていた。 ……清子も、この雪を見ているのであろうか。  朔弥はその冷たさに目を細めながらも、天を望んだ。ただ落ちてくる雪は無情だった。幸せな人にもそうでない人にも分け隔てなく降り注ぐ雪に、彼はその身を預けていた。それはまるで彼女の悲しみを、自分が代わりに受け持つような、そんな気分だった。 彼はそっと手のひらを差し出し、その冷たい冬の妖精を乗せた。 ……ああ。雪になって、お前の街に行きたいものだ……  手のひらの雪は融け、水となった。冬の訪れを知らせる雪は、ただ静かに降り注いでいた。 つづく
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