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十 函館の晩秋
「いやいや。こんなにスペイン風邪が流行するとは思いませんでした。それにしても岩倉さんでは従業員はどうでしたか」
「若い者が罹りましたが、それでも重病者は少ない方でした」
「さすが岩倉さんですね。一体、どのような対策をされたのですか」
「我々が行ったのは一般的な感染予防対策ですよ。あ?失礼します」
夜の函館区公会堂の窓辺の通路でそう語った岩倉朔弥は、寒さが我慢できず広間に戻った。
函館商工会議所の集まりに参加していた朔弥は上品なウールのワインカラーのジャケット姿で、首元に白のスカーフで口元をひっそりと巻いていた。この覆いは肌の白い彼では特に違和感を与えずなく装うことができていた。
この年、世界的流行のスペイン風邪の大流行が函館に襲来すると予兆した岩倉貿易会社では、朔弥の指示で全従業員にマスクの徹底と手洗いを実施させた。
船乗りに関してはマスクをしていないものは罰金。この重い規則を知った他会社も見習うこととなりその結果、函館の罹患者は他の地域に比べて極めて少なく抑えられていた。
この夜会、本当は参加したくなかった朔弥であったが、父も哲嗣も多忙のため仕方なく参加していた。最近の朔弥は失踪してしまった清子を探すために、新聞に探し人の記事を出していた。似た人がいると聞けば駆け付けていたが、どれも他人であり彼を失望させていた。
この夜も疲れていた彼は壁の花になりたい心境で壁側にひっそりと立っていた。
……あーあ。今宵は清子が作ってくれたビーフシチューを再現させる予定であったのに。
他人情報に振り回されていた朔弥は最近、清子の手料理の再現に凝っていた。そんな朔弥はふと、立食パーティーのテーブルに出た料理を見た。
……このデミグラスソース、清子の作ったものに似ているな。材料を聞いてみたい。
そんな料理の皿を睨んでいる彼の元に近藤がやって来た。
「ここにいたのか朔弥。あのな、こちらの社長が話を」
「正孝。それよりも今宵の料理長はいずこだ」
「それは後で!あの。社長、これがうちの専務です」
近藤が連れてきた取引相手は、朔弥を見て頬を染めた。
「初めまして。感激です!ずっとあなた様にお会いしたいと思っていました」
人気者の朔弥を目にした社長は目を輝かせた。彼は朔弥に相談したいと言い出した。
「私にわかることでしたら」
……その前に。この皿を確保しておくか。
料理に照準を合わせていた朔弥は、その手にデミグラスソースの皿を持ったままで話を聞いた。それを知らずに社長は語りだした。
「実はですね。私は、外国から氷を輸入して販売しておるのですが」
男は外国から氷を輸入している仕事であるが、その際、日本では氷がないのか、と外国人にバカにされたと憤慨していた。朔弥は皿を見つめていた。
「ですが、あなたが輸入しているのは夏の氷でしょう」
「もちろんですよ、岩倉さん!夏の氷です。関東では富士山麓の氷になりますが、あそこの氷は出荷しても融けてしまうのです」
「暑い時に氷が必要ですからね。では、長野の諏訪湖で氷を作ればよいのでは」
これに相手は首を横に振った。
「一度やりましたが、輸送費がかかりました。日光の中禅寺湖も同じ、福島もダメ。そして私はこの五稜郭の堀で氷を作って見ようと思うのです」
「五稜郭の堀なら、天然で凍りますし保管もそのままできそうですね。それに夏も涼しいので真夏に、ここから船で出荷できるでしょう」
「やはりですか?ああ、岩倉さんにそう言われば心強いです」
「しかし」
そういうと朔弥はじっとデミグラスソースを見つめた。
「そうですね……でもせっかくですから、ただ氷を運ぶだけでなく、何かと一緒に送るのはどうですか」
「ん?それはどういう意味ですか」
「今のお話の氷とは、製氷ですね。しかし例えば、氷と一緒に北海道の海の幸を送るとか、乳製品を送るとか。冷凍輸送に使えるかと思いました」
「冷凍、輸送……」
「はい。氷はもっと色んなことに使えそうだと思います。他にも、そうだな」
朔弥はちらと夜の窓を見た。
「ここ函館は水難事故もあるため、亡くなれば家族が不在でも否応なしに火葬になる街です。骨の状態で葬式をするのはそういう意味です。しかし、内地は違う。葬式の日は慣例通りに行われます。その際」
「遺体を氷で冷やす、あなたはそうおっしゃるのですね」
「縁起でもない話ですがその通りです。このスペイン風邪のご時世。何があるかわかりません。したがって氷は、今後色んな用途があると私は思います」
「おお……嬉しいです。早速帰って仕事をしないと」
氷屋の社長は挨拶もろくにせず帰ってしまった。朔弥はやっとデミグラスソースを確認しようとした。
「あの。岩倉貿易の専務様でしょうか」
「はい。そうですが」
「よかった。私はこういうものです」
彼はそっと名刺を出した。朔弥は眉をひそめてそれを読んだ。
「函館鑑別所長。失礼ですが、なぜ、あなたが今宵の席に?」
「声がお高い?申し訳ございません。私はどうしてもあなた様に助けていただきたくて」
知人のお供でここにお忍びでやって来たと彼は汗を拭きながら話した。
こういう人が珍しくない朔弥は、相手の職業に興味が沸いた。
「ふ。もしかして私を捕まえるおつもりですか?」
「あなた様を?それはとんでもない事です!実は困っておるのです。うちの囚人の事ですが」
「お静かにどうぞ。さて、どうしたものか」
お忍びでやってきた彼と話をしようとした朔弥は、皿を元のテーブルに置くと彼を広間の隅に案内した。そこにはビリヤードのテーブルがあった。
「どうぞ。これを」
「自分は玉突きなどできませんよ」
「真似事で結構ですから、さあ、始めましょう」
キューを差し出した朔弥に遠慮した所長であったが、朔弥は構わず持たせた。そして朔弥は慣れた様子でテーブル上に三角の木枠に並べられた的球に向かい、白い玉を突いた。
「それで、私に話しとは」
朔弥が突いた玉がテーブルポケットに沈む音を聞きながら、所長はキューを持ったまま話し出した。
「は、はい、実は」
そういうと所長は話し出した。それは長崎で蘭学を通じ砲弾の薬品法を学んだ男の事だった。
男は先輩に憧れ函館に来たが理想の仕事に就けず、自ら商売をした。しかしそれもうまくいかず結局借金を背負う事となった。そして最後は詐欺を働き今は函館鑑別所にて刑に服しているという。朔弥は聞きながら一人、玉を突いていた。
「この男。玉林治右衛門と申します。現在は模範囚で鑑別内の工場で勤務しておりますが、玉林は鑑別の中でマッチを拾いましてね。あろうことかこれの成分を分析して、同じマッチを作ってしまったのです」
「ほお。しかし、どうやって?」
「工場内で拾ったガラス片をかざし、成分配分を計ったと申しておりました。そして、工場内の薬品で火薬をどうとか」
「ふふ、それはすごい」
キューの先をチョークで拭きながら笑う朔弥に、鑑別所長はさらに汗を拭いた。
「笑い事ではないのですが本当にすごいのです。そして白状したのですが、玉林は外国産よりも函館で良質なマッチを作りたいと言い出しましてね。根は悪い男ではないので、どうしたものかと」
「面白いですね」
朔弥はそう言いながら玉を突いた。その玉が転がる様子を見ながら語った。
「良いのではないですか、作らせてみれば」
「え?でも、うちは鑑別所ですよ?」
「国産マッチはまだない。それに囚人という労働力もおありだ」
「それは。そうですけど」
驚く所長に朔弥はテーブルの灰皿のそばにあったマッチの箱を取り出した。
そして中から一本取りだした。
「確かマッチの軸木になるこの白木は、我が函館に豊富に生えているはず。『開発者、材料、労働力』。条件は全て揃っていますね」
「で、では。岩倉様は、これを作らせよと」
「あなたはこのマッチの技術を、私を介してどこかの会社に託したいとお思いなのでしょう」
「ご明察です」
「もったいないですね」
驚きで一歩退く所長であったが、朔弥はマッチを元に戻した。
「それに。その玉林という男は、止めてもマッチを作りたいのではないですか?ただ、その執念だけのように思えますが」
「岩倉様はすべてお見通しなのですね」
また玉を突きだした朔弥に鑑別所長はため息をついた。
「実は奴は一回マッチを完成させたのですが、そのマッチは臭気が強かったのです。このため本人は改良すると言い出して、寝ずの研究を続け、挙句に大火傷を負った次第です」
朔弥は最後に残った玉の狙いを様々な方向から確認していた。
「……鑑別所の模範囚をどんどんマッチ工場勤務にし、出所後もそこに勤務させるのです。そうすれば社会復帰、更生に繋がります。そうですね……『函館監獄マッチ』。というはどうですか」
「え?監獄ですか。そんな名前で大丈夫ですか」
驚く所長にキューを背中に回して狙いを定めた朔弥は笑った。
「ふふふ。その名前だととても燃えそうに思えますけどね?それに所長。購入する側も囚人の更生に一役買いたい気持ちがあるものです。どうぞ参考までに」
「あ、ありがとうございます。あ」
朔弥が突いた玉を所長は目を丸くして追っていた。
「……入った!やった!お見事です」
「こちらこそ。楽しい時間でした。さて」
やっと解放された朔弥はこっそりウェイターに声をかけた。
「君、これを作った料理長に聞きたいことがあるのだが」
「お味に何かございましたか?」
失礼があったと思っているウェイターに、朔弥は違うと彼を見つめた。
「そうではない。これに入っている香草を知りたいのだ」
「承知しました。お待ちくださいませ」
……ああ。やっと聞ける。おそらくローズマリーだろうな。
ソースの味で頭がいっぱいの朔弥は、今度は大きな声で呼ばれた。
「あ?やっといた。岩倉専務!」
「函館タクシーの社長。そんな大声を出さずとも聞こえますよ」
「すみません、つい、嬉しくて」
社長は大きくため息をついた。
「実は、夏の台風にて湯本温泉までの道が波に被ってしまって」
「ええ。悪路で酷い有様ですね」
「そうなんです」
タクシー観光も減り、弱っていると社長は嘆いた。
「行政に早く道路を補修してくれと頼んでいますが、返事がありません。これでは潰れてしまいます。今はどうやって死のうかその方法を思案している次第で」
「では。私に死に方の相談ですか」
「いや!違う、違う!そうではありません」
朔弥はそばにあったワインのグラスを手に取った。社長はじっと朔弥を見た。
「私が知りたいのは、生きる方法なのです。従業員がいるのです。どうかお知恵を」
「社長。悪路で困っているのはあなただけですか?」
「いや?湯本温泉もそれは困っていますよ」
「では、簡単だ」
朔弥はワインをぐいと飲んだ。
「一緒に道路を直したら?」
「それは。嘆願書を一緒に出すとかですか」
「いいえ。あなた達がお金を出して道路を補修するのです」
「え?そんな費用はありませんよ」
朔弥はすまし顔でチーズを手に取った。
「私の記憶では、四キロほどの道のりであると思います。タクシーの運転手達の仕事がないなら、彼らにも土木工事をしてもらいましょうか」
「しかし、費用が」
「それは、開通したら、料金を徴収すればよろしい」
「料金を取る?道路代ですか?」
「ええ。通行費。つまり有料道路ですね」
朔弥はチーズをぱくと食べた。
「金を出した函館タクシーや温泉会の車は無料です。それ以外から取るのです。人力車、観光バスやトラック、一般車になりますね」
「しかし、予算が」
「……試算をしないとなりませんが。悪路であればタイヤのパンクも多いはず。それにガソリンもかかります。しかし、舗装が整備されればその経費も抑えられます」
「確かに、そうですか」
不安そうな社長に朔弥は続けた。
「支払いに抵抗がある人が多いでしょうね。この対策として徴収する際に何か特典を。例え領収書の半券に温泉の割引券などもよいですね。要するに何度も利用した人には何かサービスがあれば納得してもらえます」
「……非常に良い方法だと思いますが、果たしてその時みなさんが本当に道路代を払ってくれるのか不安ですね」
「そこですか」
朔弥はそっとグラスを置いた。
「その料金の徴収係は、若い者ではなく、老人、特に老婆にすると良いでしょう」
「え?それでは誰も払わないのでは」
「誰にでも母親がいます。彼女達を前にして料金を踏み倒すことなどできません」
「わ、わかりました。こうしてはいられない!帰って温泉組合に相談しないと」
去って行った函館タクシーの社長に朔弥はホッとしていると、ここにコック帽の料理長が顔を出した。
「お客様。本日はお召し上がりいただき光栄です」
品の良い洋食のコックに朔弥は丁寧に挨拶をした。彼も会釈した。
「どれも大変美味しいです。しかしながら。このデミグラスソースが絶妙で。これに使用している香草を知りたいのです」
「困りましたね。企業秘密です」
「そうか。そうですよね」
何でも聞けば教えてくれると思っていた朔弥は、自分の非礼に気がついた。
「申し訳ありません。つい、懐かしくなって」
「……作ってくださった方は身近な人ですか?もしかして、ご自宅の庭にあるハーブではないですか」
「あ。そうかもしれません。我が庭には、ええと、ミント、ローズマリー、オレガノ、他には何だったかな」
「……二番目ですね……お客様」
「え。あ、そうですか」
間接的に答えを教えくれた料理長は微笑んでいた。
「嬉しいです。他の方も召し上がってくれて感激ですが、こうやって味の秘密を探ろうとされるのは、苦労した甲斐があります」
「そうですよね。私も婚約者に叱られたことがあります。『作るのが二時間。食べるのが二分』と。少しは感心を持たねばならぬと反省しました」
「ははは。美味しいので早く召し上がりになったのですね。しかし、二時間もかけてくれるとは、独身の私には耳が痛いです」
「……そうですね」
最後は寂しくなった朔弥であったが、それでもローズマリーという情報を手に入れた。
……今宵は大収穫であった。良しとするか。
そしてやっと近藤を見つけた朔弥は、彼と一緒に会合を出た。秋の夜は忍び足のように冷たい空気を漂わせていた。朔弥は震えつつ車に向かった。
「はあ、これで帰れるな」
「ああ。今夜はすごいのが集まっていたから」
「あの……」
この時、暗闇に男がいた。彼は車に乗ろうとしていた二人に話し掛けてきた。
「恐れ入ります。この車は岩倉様の物だと聞いたのですが、あなた様は岩倉様ですか」
「……どうする?朔弥」
いつもなら今度にしてくれと断る朔弥であった。しかし、この時、すでに後部座席に座っていた彼は気がついた。
「正孝。降りるぞ」
「え」
慌てて降りた朔弥はそっと彼の背に手を添えた。
「あの、どうされました?」
「ああ。あなたが岩倉さんですか」
「そうです。私が岩倉朔弥です」
朔弥は思わず彼の手を握っていた。彼の目は閉じられたままだった。開かないそのまぶたを朔弥はじっと見ていた。
つづく
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