一 馬小屋の娘

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一 馬小屋の娘

伊知地清子(いちじきよこ)。ここではお前を清子と呼ぶざます」 「はい」  横浜イギリス領事館を仕切っている女中頭のミス吉田はそう言ってメガネを直した。アップにした髪型の中年の痩せた身体で神経質そうな彼女は、清子を冷たく見下ろした」 「お前は函館のチャーチル領事様の紹介ということですが、なぜお前のような娘が、あの領事様と知り合いなのですか?」 「それは、私はイギリス領事館の近所に住んでおりまして、領事夫人にはお料理やお作法を習わせていただきました」 「本当ですかね」  ミス吉田は再度、紹介状を読み返した。清子はその様子をじっと見ていた。 「まったく。お前の前にやって来たあのサーカスのチイには本当に困っていました。しかし、本物はこんなに醜いとはね」 「すいません」  清子を意地悪く見つめるミス吉田に対し、清子はまっすぐ彼女を見返した。 「私、頑張ります。よろしくお願いします」 「……では、お前に説明をします。こちらに」  ミス吉田は白亜の館を抜けた。そして清子を伴い屋敷の庭の方へやってきた。 「広いお庭ですね」 「旦那様は庭を大切にされておいでです」  美しいイギリス庭園を清子は見惚れながら庭の小道を進んだ。そしてミス吉田は止まった。 「ここです」 「ここは?馬小屋ですか」 「そうざます。お前が来るまでは」  ミス吉田はそう言って小屋の戸を開いた。その背中に続くように清子も入った。その室内は確かに馬小屋であった。それでも馬の世話人が休めるように奥には小さなベッドも見えた。長身のミス吉田はくるりと清子に向いた。 「ここがお前の小屋です」 「え」 「お前には、ここで庭の手入れをしてもらいます」  ミス吉田は怪訝そうに小屋の中をぐるりと見た。 「お前の紹介状は、確かにメイドへの推薦状でした。しかし今、それを許可するワトソン領事は不在ざます。それに、あのチイのこともありますので。お前は領事がお留守の間はここで働いてもらいます」  粗末な小屋はしばらく使用されていないような埃が見えた。清子は目を瞑り、ふうと息を吐いた。 「かしこまりました」 「……別に。ここが嫌ならサーカスに戻ってよろしいざますよ?」 ……そうか。吉田さんは。私に出て行って欲しいのね……  歓迎されていないのを理解した清子は、それでも覚悟を決めた。 「いいえ?せっかくチャーチル領事が紹介してくださったのですから。御恩に報いたいです。ここで働かせていただきます」  チャーチル領事の名前を出し、頭を下げた清子の態度に敵わぬミス吉田は、悔しそうに舌打ちをした。 「結構!では仕事は後で庭番の爺やが来ます。他にも説明をするメイドをよこすので、お前はその命令に従いなさい!」 「はい。感謝申し上げます、ミス吉田」 「……ふん!」  ミス吉田は怒りを込めてドアをバタン!と閉めた。その時、思わず身を縮めてしまったが、清子はどこかほっとしていた。 ……ここが、私の部屋……  古く粗末な小屋の壁は風で吹き飛ばされそうな板だった。雨漏りしそうな薄い屋根の小屋の小さなベッドは粗末だった。しかし清子は笑顔だった。 ……まあ?窓の外には秋桜(コスモス)があんなに咲いて……それになんて見事な芝生なんでしょう。窓からの美しい庭は西洋絵画のようだわ……  横浜領事館にて冷遇された清子であったが、この粗末な元馬小屋はすっかり気に入ってしまった。 ◇◇◇ 「はあ」 「どうですか?ミス吉田、あの青痣は」  ミス吉田の右腕で、女中のクマはそう言って吉田を椅子に座らせた。吉田は疲れたように座った。 「おお?クマよ。あの娘はあんな馬小屋で、仕事をするそうです」 「まあ。なんて図々しい」 「そうですよ。あの顔でここで働くなんて!恥知らずもいいところですよ」 「あいつ。鏡を見たことがないのでしょうかね」  巨漢のクマはそう言って吉田にお茶を出した。吉田は高級カップで紅茶を飲んだ。 「はあ。それにしてもせっかくチイが辞めてほっとしていたのに。あの方が本物を連れてくるなんて」 「ジョー秋山ですよね。あの男は何者なのですか」 「クマ。軽々しくその名を口にしてはなりません。あの方は、我が主君、ワトソン領事の大切な友人です」 「おお、申し訳ございません」 「しかし、青痣があのお方の知り合いなんて……」  ミス吉田はジョー秋山を思い出し頬を染めていた。老齢であるが素敵なジョー秋山はイギリス領事の友人であった。仕事と結婚したミス吉田にとって彼は密かに心寄せる素敵な紳士だった。そんな彼の頼みをミス吉田が断れるはずがなかった。 ……でも、あの青痣をここに置く訳にはいかないざます……  美しいものが好きなワトソン領事の家族が、あの清子を雇うなどミス吉田の目線ではあり得ないことである。現在の領事一家は避暑地の日光中禅寺湖(にっこうちゅうぜんじこ)に長期滞在中である。この留守を預かるのはミス吉田であった。  この彼女の独断は、清子を劣悪な馬小屋に住まわせ、彼女から辞めたくなるように仕向けることだった。  ジョー秋山に頼まれた以上、ミス吉田から辞めさせることはできない。彼女は清子が自ら辞めたくなるように、密かに計画を立てていた。 「さて、クマ。あの娘に仕事を与えるのです。みんなが嫌がるような、それでも領事の手前です。決して暴力はなりませんよ」 「承知しております。早速、言いつけてきます」  体の大きなクマ。ニヤニヤと笑みを浮かべて馬小屋にやってきた。 ……へへへ。あの娘、こんな粗末な小屋で、今頃泣いているかもしれないな……  ミス吉田とクマは今までもあの小屋に躾として女中を押し込めたことがある。この領事館で女中をしようとやって来るのは、旧家の没落お嬢様が多かった。生意気が嫌いなミス吉田はそれらを虐め、美人で愛嬌が良い娘の場合は、その娘が辞めるまでクマが虐め抜いてきた。  そのやり方は、標的を粗末な小屋に閉じ込め、時には壁を叩き、部屋の中の娘が泣くまで続けるのだった。どの新人も泣き出す説教部屋で、青痣の清子がべそをかいている顔を思い浮かべたクマは、笑顔でやって来た。 「私だ。クマだ。入るぞ」 「はい。どうぞお入りください」 「ん、お前。なんだ、それは」 「あ?あの、ちょっとお掃除をしておりました」  手にはぞうきん、窓は開いていた。私服である着物姿の清子は、顔にマスクをして早速部屋の掃除を開始していた。 「お前、勝手なことをするんじゃないよ!」 「すみません」 「……まあ、いいさ、それよりもお前の仕事を説明する」  この時、清子はさっと彼女に椅子を出した。 「どうぞ、おかけくださいませ」 「気がきくじゃないか。では話をするぞ」 「はい!」 「ええと。お前の仕事はね」  クマは短い足を組み、意地悪く早口で説明をした。 「朝、庭の花の水やり、そして洗濯、それが済んだら朝食。これは私がここに運んでやるからな。お前は屋敷に入るんじゃないよ」 「はい」 「そして。飯が済んだら、裏庭の雑草抜き。領事はこの庭を愛しておいでだ。そして、そして……」  クマは一気に説明をした。清子は紙に書くことなく、じっと聞いていた。 「……以上だ。もう説明しないよ」 「あの」 「説明しないと言っただろう」  怒ったクマであったが、清子は動じず彼女を見つめた。 「質問です。この小屋を掃除しても良いですか?それと、出たゴミはどこに運べば良いですか」 「そ、それは。掃除は自由だが、勝手に捨てるな。それと、なんだって?」 「ゴミの捨て場所です」 「ゴミ?そ、そういう庭仕事の話は、通いの庭師の爺やに聞け」 「他に質問があったら、クマさんに聞いて良いですか」  真っ直ぐな目の清子。クマは面倒であるが清子に不手際があればクマのせいになる。ここでクマ、静かにうなづいた。 「ああ、いいよ」 「助かります!では、早速、草取りをしますね」 ……助かります?……  目の前の娘に対し、自分は意地悪をしたつもりなのに、今は渡された古い作業着を手にし、喜んでいる様子にクマは驚いた。清子は笑顔だった。 「良いんですか?私がこれを使っても?」 「ああ」 「嬉しいです!大切に使います」  清子は丁寧にお辞儀をした。そして、テキパキと動き出した。クマは呆れた様子で小屋を後にした。クマが小屋を振り返ると着替えたマスク姿の清子は、緑のつなぎの作業着にて生き生きと馬小屋の窓を開けていた。 ……なんなんだ、あの娘は?……  意地悪をしたつもりなのに。感謝されたクマは、不思議顔で屋敷に戻った。 ◇◇◇ ……ふふふ。自由に掃除をしても良いって!嬉しい……  清子は早速仕事をしていた。まずは今夜の寝床の支度である。今は夕刻であったので、ひとまずベッドの整理であった。この埃がすごいので清子はマスクをつけたままだった。  灯した蝋燭の明かりはロマンチックであり、窓の外は薔薇の蕾で飾られていた。隙間風は緑の匂いがした。  先ほどクマが持ってきてくれたパンは硬かったので少し薪で焼いて食べた。そしてサーカスのみんなが持たせてくれた食べ物も少し食べた清子は小さなベッドに寝た。  この半年あまりサーカス小屋で寝泊まりしていた清子にとって、この古いベッドは実に快適だった。夏の終わりの横浜の夜の涼しい風のセレナーデのように心地良かった。 ……さあ。明日からはじまりね……  横浜領事館での暮らしを前に、清子は心清々しく眠った。  翌朝。早く目覚めた清子はクマの言いつけ通りに仕事を開始していた。広い庭にはたくさんの植物があり、これらに水を撒くのが清子の仕事だった。  井戸水を汲み、これをまく作業は結構な重労働だったが、気分が良かった。 「おはようさん」 「あ?おはようございます」 「お前さんか。新しい庭師は」 「はい」  近所に住んでいるという庭番の格好の老人は、井上と名乗った。 「以前はわしが住み込みでこの庭の世話をしておったが、妻が具合が悪いのでのう」 「そうですか。私は清子です。よろしくお願いします」 「……まあ良い。早速水やりじゃ」  無愛想な井上はかなり高齢で腰が痛む様子だった。これを思い、清子は力仕事を進んで行った。 「井上さん。水をここにおきますね。それと、ここの草取りの続きは洗濯の後にします」 「ところで。お前さんは花に詳しいのかね」 「お花は好きですが、私は北海道から来たので、ここには見たことがない植物が多いですね」 「北海道?」 「ええ。でも、勉強します。早速ですけど、この松は赤松ですか?」  庭の大きな木を井上は勢いで説明をした。清子は書き留めもせずじっと聞いていた。 「そうですか。では秋には松茸が生えるのですね。楽しみです」 「お前さん、その顔は生まれつきかい」  そういえば今朝から誰にも会っていなかった清子は痣を隠すマスクをしていなかった。思わずハッとした。 「そうなんです!すみません。私、マスクをするのを忘れていました」  清子は慌てて手ぬぐいを口に巻いた。そして首の後ろでぐっと縛った。 「すみません。これでもまだ目の周りの青いのが見えると思いますが生まれつきの痣なのです。ご不快でしたら、申し訳ないです」 ……ほお。これは強そうじゃ……  井上老人は、微笑んだ。 「良い良い。お前さんの仕事は庭師だ。痣だろうが何だろうが、わしにはどうでもいい。それは外して仕事をしなさい」 「本当ですか?ありがとうございます」 「ありがとうございます?」  お礼を言いながら顔の覆いを外す清子に、井上は目をパチクリさせた。 「はい!そうだ、お洗濯だわ?すいません。ちょっと行ってきます」 「あ、ああ」  古びた作業着を着て、颯爽と走るその小さな背中の娘は、長い髪をまとめていた。その黒髪が美しく光っていた。顔に青痣がある娘を井上老人は一瞬、不憫に思っていたが、ここで笑った。 ……さあて。久しぶりに骨のある者がきたもんだ……  井上老人は曲がった腰で庭を見渡した。夏の終わりの横浜の見上げた空はひたすら青かった。 一話 馬小屋の娘 完
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