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二 秋の訪れ
「哲嗣。これを見ろ」
「ああ。スペイン風邪か」
紅葉の街路樹は秋色の函館山のお膝元の岩倉貿易会社の本社ビルの一室は、どこか冷たい潮風が窓を打っていた。その一室にて岩倉朔弥は新聞の内容を弟に話していた。
「この流行り風邪のことはラジオでも盛んに流している。これはヨーロッパでは猛威を奮っておるようで、多数の死者が出ているそうだ」
「日本でも流行るのかな」
「ああ。時間の問題だな」
朔弥は考え込みながら椅子に背持たれた。そして目を瞑った。哲嗣は続けた。
「兄上、それなら今から薬を輸入しましょうか」
「特効薬はない。このスペイン風邪は弱い者が罹患すれば死ぬ」
「そんな」
「……罹れば死ぬのだから。罹らぬようにする他あるまいな」
考え込む朔弥であったが、哲嗣は本州から来た手紙を読んでいた。
「これは神戸の友人ですが、そんな事が書いてあったような……あ!やはり、あった。そうですね。外国人はこの風邪の対策をしているようです」
「彼らは自国から情報が来るのであろう。して?何をしておるのだ」
「『マスク』とあります」
「マスク?」
眉間に皺を寄せる朔弥に、哲嗣は資料を見せた。そにはイラスト付きの手紙が入っていた。
哲嗣の同級生で父親の仕事の関係で神戸で働いている者がいた。神戸は異国人が多く、さらに函館よりも情報が早いため哲嗣は日頃から友人と手紙のやりとりしていた。今回の手紙の内容によると日本国内でも流行の兆しがあるという内容だった。
「政府は隠しているようですが、すでに神戸ではマスクに使用されるガーゼや衛生用品は品薄、とありますね」
「そうか。この風邪は感冒の一種と言われているが、ここ函館は港町だ。船乗りから感染が広まるのは時間の問題だな」
朔弥は目を瞑り考えた。そして、対策を講じた。まずは風邪の流行前にマスクの徹底をし、社員に手洗いの推奨をするというものだった。これを秘書の近藤が質問した。
「僕もそれに同感だけど、みんな、その顔を覆うマスクをつけてくれるかが問題だよ」
「正孝。これは好きも嫌いもない、つけねばならぬのだ」
「ですが兄上。確かに船乗りなどは言うことを聞かないでしょうね。こちらが思うようにはいかない可能性があります」
「問題はそこか。ちょっと考えておく」
「あ。朔弥。行く時間だぞ」
「ああ、今参る」
他の仕事も溜まっている朔弥は多忙を極めた体で岩倉貿易会社を出た。そして近藤が運転する車に乗った。
「朔弥。この道、やっと開通したんだ」
「水害で土砂が溜まっていたからな」
夏の終わりの大型台風は、函館の街にも多くの爪痕を残した。川は氾濫し、床上浸水被害の家屋が多数あった。今はやっと人々が暮らしを取り戻しつつあった。
「それにしても『スペイン風邪』か。して、朔弥に良い考えはあるのかい?」
「随分簡単に言ってくれるな」
幼馴染の秘書の近藤の軽口に、後部座席の朔弥は呆れた様子で背もたれた。
「どうせ、船乗りに説明をしても命令を聞かぬ。よってこれは罰則にせねば無理かもしれぬ」
「それは、マスクをしていないと罰金ってことかい?」
「それが一番管理しやすいからな」
……マスクか……
朔弥は車窓から海を見た。
「なあ、正孝。清子は痣を隠す為にマスクをしておったのだろう?それはどう言うものだ」
「そうだったね」
運転しながら、近藤は懐かしそうに話した。
「清子さんは顔に痣があったから顔を布で覆っていたんだ。まあ、それでも痣があるのは左目の周りだから、それでも痣が見えていたけどね」
「ではなぜそんなマスクをしておったのだ」
「……あの様子だと、実家の家族に顔を隠すように言われていたようだったな。なるべく前髪もこう、垂らしていたしな。でもな?誰もいない時は、マスクを外していたよ」
「そうか」
目が不自由だった朔弥は、清子の顔を見たことがなかった。この近藤の話、朔弥には新鮮な話だった。
「それにね。顔の覆いも顔の色を配慮したのか、薄紫色でね。彼女、とても綺麗だったよ」
「ほう……綺麗か、なるほど」
何か考え込んでいた朔弥であったが、車はやがて現場に到着した。二人は函館役所に呼ばれていた。
「やあ岩倉専務。忙しいところいつも申し訳ない」
「いいえ助言だけですし。ええと送っていただいた資料を読みました」
この夏の函館の台風被害は亀田川が三メートル増水したため、一部堤防は決壊した。大綿町から海岸町に泥水があふれ膝下まで浸水し、亀田村でも200戸が浸水被害とあった。これの対策に弱った首長は岩倉朔弥に助言を求めていた。
函館の代表である首長の迷いは、河川を新たに護岸工事することによる多額な予算のことだった。
「専務。見ての通り予算は膨大になる。土木の専門家は金になるのでそんな見積もりになるが、なんとか低予算でできぬものかと悩んでおるのです」
「首長。まず資料にもありましたが、自分は電気の方を懸念しております」
「電気ですか?」
「そうです。函館水力発電会社の発電施設が土砂崩れで市内が停電しましたよね。夜は真っ暗、路面電車の路線をしばらく馬が引いていました。私はまず電気の方を優先すべきと思うのです」
「え?街づくりよりもそっちですか?」
「まず、首長もお茶をどうぞ」
朔弥は首長にお茶を勧めた。朔弥は淡々と話し始めた。
「あの停電は、結局、電線が一部切れただけのようですが、あれほど復興に時間がかかったのは、道が塞がり社員が駆けつけられなかったことが原因です。それに電気がないため、夜の工事ができなかったことが大きいです」
「あれには弱りましたね」
朔弥はお茶を一口飲み、テーブルに置いた。
「私は思うのです。今後もこの規模の嵐が来るのではないかと。それに今回は函館では死者がいませんでしたが、また同じことが起こると思って良いでしょうね」
「では、専務は、やはり堤防の工事に予算を」
「いいえ。あそこはやっても無駄です」
被害地は川よりも低い土地だった。朔弥は長い足を組み直し、堤防工事は無駄だとバッサリ切った。
「では。どうせよと」
「あの周辺の者は代替え地へ移転です。そもそも亀田川の周辺に住んでいた者は長屋暮らです。ここはもう建築禁止にすべきです。住居はもっと内陸へ移動です。そこに市営アパートを建設した方が予算が安いでしょう」
「だが。素直に移転してくれるだろうか?」
「あの地は元々良くありません。低家賃なのでやむを得ず住んでいた雰囲気ですよ。市営アパートで同じ家賃なら嬉しいくらいです。そしてそうですね、移転により仕事を失う人がいるかもしれないので、仕事を斡旋してはいかがですか。復興の工事ならいくらでもあるでしょう」
「なるほど」
「あっという間に冬がきます。市営アパート建設よりも民間アパートを買うのもありですね。部屋を借り上げても良い。とにかく被害に遭った人が、まだ水害の恐怖を覚えているうちに早く動くべきです」
「わかりました。でも、川は?護岸工事は」
「ああ。それですか」
朔弥は微笑んだ。
「良いのではないですか。そのままで」
「え」
「橋は直した方が良いですが、そもそも堤防というものはただの盛り土。決壊したらそこから溜まりに溜まった大量の水が一気に流れて来るものです」
「た、確かにそうですが」
朔弥の話に首長は顔の汗を拭いた。
「で、では。専務は堤防は簡素なもので良いとおっしゃるのですか?」
「首長。南アジアのモンスーンという台風が来る地域の話ですが、そこでは川に立派な橋を架けないそうです」
朔弥は気だるそうに首を回した。
「どうせ、橋を建設してもモンスーンの濁流で流れてしまいます。よって彼らは流れても良いように、軽い木材で作っているのです。そして、流されても又、簡単な木の橋で済ませるのです。その方が下流で事故もなく、予算も手間も楽なので」
首長は秘書と顔を見合わせたが、朔弥の話を聞いていた。
「専務のお話は自然に合わせた暮らしですか?確かに、その方が楽でしょうね」
「ええ。それに、堤防が貧弱であれば、みんなあの周辺に住みたいとは思わない。それゆえに雨で増水した時は、怖くて自ら避難するでしょう。頑丈な堤防は返って人を油断させ、危険に晒すことになります」
「……いや。これはこれは」
首長は朔弥の意外な助言に顔の汗を再び拭いていた。朔弥は構わず続けた。
「私は川の専門家ではありませんが、住民が立ち退いた川の周辺土地を使えば
、増水時の貯水池になるかと思います。これはどうぞ専門家にお尋ねください」
「はい。それは土木の専門家に申しつけます。おそらくそれで大丈夫でしょう」
首長の秘書は、先ほどから朔弥の言葉を必死に記していた。彼は構わず続けた。
「それよりも。予算は電気会社の方にかけるべきです。真冬の停電は凍死につながります。機械に故障は付き物。だからこそ、いつでも駆けつけられるようにすべきです」
「ああ、よかった」
「ん?何がですか」
首長はほっとした様子でお茶を飲んだ。
「専務のお話が聞けてです。私は政治家ですが、専門家ではないので」
「いやいや私も専門家ではありませんよ」
「何をおっしゃる?私はですね。前から思っていたのですよ。お目が見えない分、たくさんの情報で、色んな想定をされておいでだと。だが、今はこうして見ておいでだ。これからが楽しみですね」
「……首長。話は変わりますが、スペイン風邪のことはご存知ですか」
「さすがお耳が早い?」
首長は、どうして良いかまだ模索中と打ち明けた。
「それは長崎から大阪にはすでに流行りつつあるようです。外国から入った病ですので、函館も時間の問題です」
「首長。函館も出来うる限りの対策を講じるべきです、では、時間ですので、私はこれで」
立ち上がった朔弥は外で控えていた近藤と部屋を後にした。廊下を歩いていると女子社員に声を掛けられた。
「あの。岩倉様」
「あ?俺が受け取るよ。僕は秘書ですが、うちの専務に何か?」
「あ、あの」
美しく化粧をした女子社員達は、恥ずかしそうに近藤に手紙を渡した。
「今度、函館の夜を飾ろうと、私達有志で駅前をキャンドルで飾るんです。それに、どうか、お越しいただけないかと」
「夜の集まりですか」
近藤はチラと朔弥を見た。彼はカンカン帽をかぶりながら首を横に振った。
「ごめんね。専務は忙しくて。では、これで」
「参るぞ、正孝」
どこか怒っている朔弥を、近藤は慌てて追いかけ一緒に歩いた。
「そんなに怒ることないじゃないか」
「別に。それに俺は本当に忙しいのだ」
……目が見えるようになったら、こうも違うとは……
開眼した彼は嫌悪していた。それまで自分を相手にしなかった娘たちの熱い視線や態度であった。朔弥はこんな掌返しの人の気持ちに疲れ、そして軽蔑していた。
……ああ、それよりも清子が作ったパンケーキが食べたい。明日の日曜日は今度こそ成功させたいものだ……
そんなことを考えながら彼は自宅に帰ってきた。この夜も瀧川と話をした彼は、自室にてラジオを聞いていた。手元には紙細工を持ち、今は花を折っていた。彼の心は彼女でいっぱいだった。
◇◇◇
「いつの間にかこんなに暗くなっていたのね。ええと。ロウソクを点けましょう」
横浜のイギリス領事館の庭の小屋で清子はひとりぼっちであった。宵の元馬小屋にて明かりを灯そうとした清子は、マッチを擦ってロウソクを灯した。優しく揺らぐその明かりを、清子は肘を突き見つめていた。
……夕食もいただいたし。さて、ラジオでも聞こうかな……
清子はサーカス団の時に手に入れた古いラジオを毎晩聞いていた。この庭は高い丘にあるため感度が良く、色んな番組を聞くことが可能で最高だった。今夜は彼女の好きな国際情報の日であったが、最近はスペイン風邪の話ばかりをしていた。
……ヨーロッパではそんなに亡くなった人がいるのね。これから日本も冬だし。恐ろしいわ。
やがて眠くなりベッドに入った清子はふと天井の隙間を見た。星が見えていた。彼女は目を閉じながら思い返していた。
サーカス団のこと。そこでの仲間のこと、しかし、やはり目を瞑ると彼の顔が思い浮かんだ。夢の中の彼は魚を食べていた。
……うふふ。ホッケかしら。本当にお好きだものね……
夢の中の朔弥は自分の名前を呼んでいた。夢の中の清子は楽しかったが、早朝、小鳥の声で目が覚めた。
……さあ、今日も頑張ろう。良い天気だもの……
本当は寂しい。本当は彼に会いたい。しかし、それを払拭するように清子は誰もいない庭に出た。そして大きく深呼吸をし、ひたすらに手入れをしていた。
こうして横浜で過ごしていた一週間後に、ワトソン領事一家が帰ってきた。玄関ではミス吉田が恭しく対応していたのが見えた。屋敷に足を入れてはならない清子は身を隠しながら、そっと井上に尋ねた。
「井上さん。あのお方が領事官ですか」
「ああ。清子はまだ会うのは初めてだったな」
庭師の井上は草取りをしながら教えてくれた。
「ワトソン領事官は英国紳士で厳しいお方だ。夫人も小さいお子さんがいるが、一生懸命努めておいでだ」
「お子さんがいるのですか」
井上は、ここには長男と幼い妹がいると教えてくれた。
「まあ。お前さんも挨拶に行けばわかるさ」
「そうですね。早めに伺います」
そんな清子は、庭に出ていた女中の先輩のクマにこの件を尋ねた。
「クマさん。私、領事官にご挨拶をしたいと思うのですが」
「……いちいちうるさいね?それはこちらが決めることだ!お前が決める事じゃないだろう」
「はい」
「そんなことを考える暇があるんなら、庭の草をむしれ!
「はい」
……変ね?あんなに怒るなんて……
どこか慌てているクマが不思議な清子であったが、翌日にその理由が判明した。クマは硬いパンを持って来ながら告げた。
「おい。青痣。旦那様はお前を女中として認めないそうだ」
「そう、ですか」
小屋にやってきたクマの嬉しそうな声を清子はじっと聞いていた。クマは面倒そうに話した。
「だがな、領事様は情け深いお方だ。よってお前を庭師としてなら雇ってくださるそうだよ」
「本当ですか?」
「ああ」
「嬉しいです!もしかしてクマさんが領事様に頼んでくださったのですか」
「いや?その」
ミス吉田とクマは領事官に清子の話をしていない。顔に痣のある清子はこの屋敷にふさわしくないと勝手に判断したからである。ワトソン領事官の知っている事は、函館のチャーチル領事の紹介でやってきた娘が勝手に辞めて出ていったという話までである。ミス吉田とクマはそれが偽物のチイだった事が、自分たちの責任になると思い領事には告げていなかった。
何も聞かされていないワトソン領事は、せっかく雇った娘が辞めたことを不義理であると激怒していたほどだった。ミス吉田は清子のことを井上の助手の近所の庭師としか紹介しなかった。
さらに二人は、この庭師のきつい仕事なら清子は泣いて逃げ出すと思っていたのだが、彼女は日に日に笑みを見せていた。
「ありがとうございます。私、本当にここにいて良いんですね?よかった」
「あ、ああ」
「では。私、これからも顔を見せないように、領事様にお顔を見せないようにお庭の仕事をします!それでは」
清子は嬉しさに庭を走っていった。クマは呆然と見ていた。
……てっきり。絶望すると思ったのに。何なんだよ、あの娘は……
呆然としたクマは、太った体で屋敷へ戻っていった。清子は庭にいた井上の元に駆けた。
「井上さん!」
「おう。旦那様に挨拶はできたかね」
「いいえ。それは叶いませんでしたけど」
清子は息を整えつつ、白い歯を見せた。
「私。このまま庭師の仕事になったんです!」
「ほう」
「でも、顔は領事様に見せない約束なんです。でも嬉しいです。こうやって美しい緑に囲まれてお仕事できるなんて……」
ひどい条件を笑顔で話す清子を、井上は見つめた。
「そうか」
「井上さん!これからも、どうぞよろしくお願いします!」
「ふ」
「え」
井上は笑い出した。清子はポカンとした顔で見ていた。
「はっはは……いやいや。こいつは本物だ」
女中にしてもらえない娘は、屋敷にも入れてもらえない仲間外れである。しかも顔を出すなという酷い話だった。これを悲しみで落ち込んでいると思っていた井上だが、彼女は満面の笑みでこの状況を喜んでいた。
「強いのう」
「井上さん?」
「はは……それではな。わしも遠慮なく本腰を入れてお前さんを仕込むぞ。覚悟は良いな」
「はい!こちらこそ」
土まみれの清子は屈んで草を抜いた。空は青空、その風は少しづつ、秋の匂いがしてきた。
二 「秋の訪れ」完
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