三 茨の道 

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三 茨の道 

「おはようございます。井上さん。ここの草はもう取りました」 「そのようだな」  秋の横浜の乾いた風が流れる早朝の広い庭にいた通いの爺やの井上に、清子は抜いた草を見せた。 「……あの、井上さん。お尋ねしたいのですが」 「ん?」  清子は屈んだままその草を手に取った。 「この草の名前を知りたいのです」 「雑草の?」 「ええ」  清子はそれを一つ取り上げた。 「雑草って言いますけど、植物にはどれにも名前がちゃんとあるはずですもの。私はそれが知りたいのです」 「ほう」  井上は目を細めた。 ……かつて。天皇が庭番にそうお尋ねしたと師匠に聞いたことがある。この娘、実に面白い…… 「知ってどうするのだ」 「そうですね。どうしてここに生えるのか知りたいですし、それに、例えば食べられるとか?薬になるとか。興味があります」 「わかった。後で本をやろう」 「本当ですか?嬉しいです」  そして、この日。清子は薔薇の庭にやってきた。イギリス領事館は白亜の館であり、緑の園は英国そのもので、歴代の領事官が大切に引き継いできた自慢の庭であった。 「うわ?これは蕾ですか?薔薇は初夏に咲くと思っていました」 「お前さんがいた北国とは違う。ここは暖かい。ここの薔薇はこれから秋にも咲くのだ」  清子はうっとりしながら蕾を見つめた。 「可愛い蕾……私、薔薇は蕾が一番好きです」 「薔薇の美しさはその蕾にあるというが、お前さんもか」 「ええ。咲く前のこの姿が綺麗です。それにこれからどんな花が咲くのか、開くまでの動きが優雅で本当に楽しみです」  井上は感心していたが、清子に指導を始めた。薔薇の手入れについて彼は丁寧に教えてくれた。それは冬の間の手入れだった。 「では井上さん。これから咲いた後、薔薇は冬に休眠するのですね」 「ああ。それまでに剪定や色々することがある」 「そうか。この手入れが、来年の花を綺麗に咲かせるという事なのですね」 「……わがままなのだよ。薔薇という花は」  手入れが複雑で難しいとつぶやきながら井上は清子を見たが、彼女は笑っていた。 「いいえ?手入れをした分、綺麗に咲くなんて。私はやりがいがあります」 「そんなことを言うのはお前さんだけだ。さあ。他にも花はたくさんあるぞ」  こうして清子は毎日庭の仕事をしていた。ミス吉田に屋敷内には入るなという言いつけであったので、食べ物はクマが持ってきてくれた。だがおそらくみんなの食べ残しだと清子は思っていた。  しかもこれも最初だけであり、クマは食事を持ってくるのが面倒になったようで、清子に勝手口まで取りに来るように言い出した。清子は言いつけ通りに行くと、若い女中が食べ物をくれるようになった。 「これがあんたの分よ」 「ありがとうございます」 「ねえ、あんた。本当にあの馬小屋で平気なの?」  同年代の女中、ミミ子は呆れた様子で話すが、清子は笑顔だった。 「はい!いつもありがとうございます」 「ま、いいけどさ」  元気よく受け取った清子は、ミミ子に挨拶をして受け取った。ミミ子になってから綺麗な一人前の食事になっていたので、清子はこの好意をありがたく受け止めると急ぎ馬小屋に戻った。 「さて。この草の名前はなんでしょうね」  宵の小屋。清子は今夜もランプを灯した。その明かりを頼りに図鑑を開いた。この図鑑は井上がくれた本だった。使い古されてふんわり膨らんだこの本はどこか優しく清子にささやき、彼女の研究を毎晩支えていた。 「そうか……これはこの仲間なのね。日陰を好むって、そうね。確かにそうだったな」  清子は井上の勧めでノートに植物を描いていた。これはこの庭に生えている植物である。  夜、時間がある清子は月夜がほほ笑む窓辺で短い鉛筆を助手に植物図鑑を作るようになった。採取した草はその姿を描き、気が付いたことを細かく記していった。井上がくれた色鉛筆は短かったが、これを最後まで使えば何か良いことがあるような気がして、清子の心は七色に踊っていた。 ……ええと、根っこも書いて、と。それと、採取した日付けと、場所を記しておかないと……  さらに描き終えた清子は、その植物を押し花にし保存していた。草花を新聞紙に挟み、馬小屋の隅にあった持ち上げられないほど馬用の農具で圧した。  幸せな時間を閉じ込めた押し花は綺麗な色を保ち、馬小屋を花園に模様替えをしていった。清子は新たな植物を発見するたびにこれを作っていた。 ……でも……どうして、この植物が生えてくるんだろう……やっぱり種が飛んでくるのよね。  抜いても抜いても草が生える理由を探っている清子は、この夜も考えながら布団に入った。 ……虫や蝶?蜂かな……うーん。知りたいな……  粗末な小屋の壁や天井はみすぼらしかった。しかし心が充実していた清子の意識はこの小屋を突き抜けて、秋の英国庭園に飛んでいた。  この夜の研究に夢中になった清子の心の色は、悲しみから楽しみへと色を段階変化(グラデーション)させていた。  こうしたある日。庭にいた清子は怒声を聞いた。 ……まただわ。旦那様が怒っている……  屋敷から聞こえる領事の威圧的な声の内容は、長男への強制指導であった。 まだ幼いロバートが被る領事の言葉には、良いところをほめるという思いは一切感じられず、まるで針を刺すように彼のダメな点をひらすら突くものだった。  英語が少しわかる清子は屋敷の窓を見上げては、ロバートと一緒に傷付いていた。 ……それに夫人は幼いお嬢様に手がかかっておいでで、坊ちゃまをみる余裕がないようだし……  ロバートは頑張って勉強しているが、まだ幼く遊びたい盛りのようすだった。だが領事はそれに構うことなく、彼に勉強せよと強く躾けていた。サーカスで伸び伸びと過ごしていた子供達を知る清子はロバートが可哀想で仕方なかった。  そんなロバートの乳母はあのミス吉田である。彼女もまたロバートに厳しく接していた。 ……お勉強が終わったばかりなのに今度は休まずにピアノの演奏をさせるなんて。うまく弾けるはずがないわ……  怒号を聞くたびに悲しくなる清子はこの日の午後小屋にて井上からもらった花の種を整理していた。  その時、急に小屋の扉が開いた。 「え?坊ちゃま?」 「……」  金髪の青い瞳が濡れていた。彼は黙って小屋に入ってきた。椅子に座っていた清子は思わず立ち上がった。 「What's the matter? This is a hut.(どうされました?ここは小屋ですよ)」 「……」  ロバートは何も言わなかった。しかし、ここでミス吉田が彼を探す金切声がした。清子は咄嗟に彼をベッドに入れた。 「Stay here. Be quiet.(ここにいて。静かにね)」 「yes」  そして清子は小屋の外に出た。 「ミス吉田。どうかされました?」 「清子。坊ちゃまを見ませんでしたか?」 「いいえ」 「本当に困ったものざます。勉強もせず怠けてばかりで」  探しに来たミス吉田は清子に向かった。 「良いですか?見つけたら連れて来るざます。旦那様に見つからないように」 ……そうか。坊ちゃまが逃げ出したとなると、ミス吉田は困るのね…… 「わかりました」 「では。私は向こうを探します」 そう言って彼女は行ってしまった。清子はしばらく探すふりをしてから小屋に戻った。 ……まあ、寝ているわ……  涙の頬の少年は安心したようにこんな粗末なベッドで寝ていた。この幼い寝顔を見た清子は可哀想になった。  そして清子はそっと布団をかけ寝かせた。そして一時間ほどで彼を起こしたがロバートは何も言わずに出て行こうとした。 「It's no good. Let's go with me(だめです。私と行きましょう)」 「But(でも) 「Leave it to me.(私に任せてね)」  笑顔で彼を応援した清子は、彼と手を繋いで屋敷の勝手口にやってきた。そこにはミミ子がいた。 「まあ。坊ちゃま。どこにいたの?」 「ミミ子さん。すみません、私の責任です」  清子は自分が集めた薪の束に、ロバートが挟まっていたと説明した。この時、ミス吉田がやってきた。 「お前のせいですか」 「はい。私の薪の積み方が悪かったのです。坊っちゃまにお怪我はありません」 「当然ざます!坊ちゃま。早くお入りなさい。清子。お前には罰を与えます」  家に入ったロバートは、じっと清子を見ていた。 「しばらく夕飯は無しです!他にも罰を与えますので覚悟なさい」 「はい。申し訳ありませんでした」  頭を下げた清子は静かに小屋に戻った。夕刻のオレンジ色の空は清子の心のように穏やかだった。  翌日から清子は別の仕事を言いつけられた。 「え?薔薇の枝を拭くのですか?」 「そうざます……旦那様は薔薇が咲くのを楽しみにしているざます」  棘のある枝を拭けとミス吉田は冷たく言い出した。庭までやって来て話すミス吉田に清子はうなづいた。 「わかりました」 「全部ですよ。私は窓から見ていますからね」  話を聞いていた庭師の井上はミス吉田が去った後、呆れたように白髪頭をかいた。 「そんな事をすることない。私が免除したことにするから」 「いいえ。私、やります」 「清子」  清子は作業着のポケットから何やら取り出した。 「これで拭きます」 「それはなんだ?」 「夫人の手袋でしょうか。穴があるのでゴミ捨て場にあったのですが。使えると思って、拾ってしまいました」  これを清子は両手にはめた。 「あのね。井上さん。私、薔薇の枝をこれで拭いてみます。それにね。害虫がいたら、取りますので」 「全く、お前さんは言い出したら聞かないの」  呆れた彼であったが、道具箱から瓶を持ってきた。白い粉が入っていた。 「それは?」 「米糠だ……肥料にもなるし、消毒にもなる。せっかくだから。これを水で溶いて枝や葉を拭いてみろ」 「はい。やってみます!」  清子はバケツの水に米糠を混ぜた。これを手袋で濡らした。この手袋をつけていてももちろん棘はあった。清子は気をつけていたがその手は棘が刺さりだんだん赤く染まっていた。  これを見ていた井上は清子が自分自身では止めないと判断し、夕暮れを理由にこの日は終わらせた。 「その薔薇の手入れだが、ミス吉田は一日でやれとは言っておらん。それにお前は他の仕事もある。今夜はその手をちゃんと洗って寝ろ」 「はい。お疲れ様でした」  井上を見送った清子には夕飯はない。しかし心を爽やかに疲れた体で小屋に戻ってきた。 「あ。またいた」 「……」  ロバートは暗い部屋で清子を待っていた。その顔は思い込んでいる様子だった。 「ごめんなさい」 「まあ?日本語がお上手ですね。私は平気です。坊ちゃまは大丈夫ですか?怒られなかった?」 「うん……お前は?」 「私はいいのです。それよりも、屋敷に帰らないと叱られますよ」  ロバートはじっと清子の手を見ていた。思わず清子はその手を背後に隠した。 ……どうしよう、気にしているみたい……  自分をじっと見ている子供に清子は思わず声をかけた。 「そうだ!坊ちゃま。お庭に来た時は清子に声をかけてくださいね。お庭を案内しますから」  笑顔の清子にロバートは無言で帰っていった。しかし、ふと見ると彼がいたところにパンが置いてあった。 ……これを私に?まあ……  幼い彼の優しさ、そして悲しさ。これがわかる清子は昔の自分を思い出した。それを思うと血が滲んだこの手は何も何も痛くなかった。  そっと小屋の窓から見る走り去る少年の背中は、どこか愛しくどこか勇ましかった。清子はただ微笑んでそれを見ていた。  そして翌日からロバートは庭に顔を出すようになった。 「お前、まだ薔薇の手入れなの?」  不安そうなロバートであったが、清子は微笑んだ。 「……終わりましたよ、今」 「本当?」 「いやいや。清子は本当に根性持ちだ」  井上は感心し、ロバートはやった!と跳ねた。 「もう痛くないね」 「ええ坊ちゃま。それにね、虫も退治したし。ね?井上さん、これで綺麗に咲きますか?」 「ああ。楽しみだよ」  薔薇の蕾の庭にいた三人は眩しい日差しを見上げていた。清子が手入れをした秋の薔薇は緑が濃く、姿は凛々しく、小ぶりの蕾には優しさが閉じ込められていた。清子はロバートが嬉しそうに見ているのが嬉しかった。  しかしその時、また屋敷からミス吉田の感情葛藤の《ヒステリー》声がした。 「坊ちゃま。ミス吉田が呼んでいます」 「また勉強だ……」  ガミガミ怒ってばかりのミス吉田をロバートが嫌になるのも清子はわかる気がした。しかし、ロバートは走って屋敷に戻っていった。悲しい小さな背を清子は見守るしかできずにいた。  そんなある日。ロバートは沈んだ顔で庭にやってきた。 「どうなさったのですか?」 「ダディに。この庭の木の数を全部数えるように言われたんだ」 「この庭の木の数を?」  ロバートは小さく、うなづいた。 「ダディは僕が嫌いなんだ、意地悪ばっかりで」  落ち込むロバートに清子は思わず息を呑んだ。 「……坊ちゃま。清子に考えがあります」 「え」 「やれます、いいえ、やるのです。ちょっと待っていてね」  清子は小屋に向かって走った。ロバートは慌てて後を追った。それを井上は秋の園の風と共に優しい目で見ていた。 つづく
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