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「あった。これよ」
「清子。何をするの?」
「坊ちゃま。これを使って数えるのですよ」
清子が、はいと渡したのは長いロープだった。
「これでどうするの」
「いいですか?これを切って、木に結んでいくのです」
意味がわからなかったロバートであるが、やっているうちにその意味を理解した。
「そうか。これで十本結べば、木も十本だね」
「そうです!」
ここでやって来た井上が助言した。
「坊ちゃま。せっかくですので、木の種類も数えたらどうですかな」
「どういう意味?」
「清子が説明しますね」
まず、一本目の木。これを結びながら1とした清子はこの樹木の葉を拾った。
「坊ちゃまはノートにこれを書いてください。そして木の葉の裏にも1と書いてくださいませ」
「書いたけど。どうして葉を取っておくの?」
ここで井上はロバートの肩を優しく抱いた。
「坊ちゃま。木を見分けるの時はこの葉で調べるのです。それに今はちょうど秋なので、今ならまだ葉がありますぞ」
「そうか。冬になったら葉が無くなってしまうから……うん。僕、やってみる」
こうしてロバートは木の幹にロープで結んでいった。子供の研究はゆっくりと進んだ。清子は最初、二十本ロープを用意したが、すぐに足りなくなった。これを補充してもらったロバートは、一人で黙々と作業をこなしていた。清子はそんな彼を見守っていた。
……手伝うのは簡単だけど。この研究時間だけは、坊ちゃまは自由だから……
彼にとっては貴重な時間だと清子はそう思い、ロバートの勉強を見つめていた。そんなロバートは庭仕事中の清子を呼びに来た。
「ねえ清子!見てこの木を、上に鳥の巣があるよ」
「そうなのですよ。坊ちゃま。清子も気になっていました」
「僕、あの鳥を調べるよ。ええと。この木は『23』だ」
必死にノートに書くロバート少年に、清子は笑みを見せた。
「坊ちゃま。23番も良いですがこういう時は、木に名前をつけると良いですよ」
「名前?この木は……cedar(杉)かな」
「いえいえ。そうではありません。坊ちゃまが好きな名前をつけるのです」
「僕の好き名前?……だったら、これはBird tree(小鳥の木)』っていうのはどう?」
可愛い少年に清子は拍手をした。
「素敵です!では、あちらは?」
「あれは……僕は上から落ちたことがあるから『A wild fellow(乱暴者)』にするよ」
「ふふふ。お上手です。坊ちゃまは名付けが上手ですね」
こうしてロバートは屋敷に戻るとこの葉を調べていた。この調べ方は清子の植物図鑑と彼女が描いた植物絵をそばに置き、真似て行うものだった。自室で机にて調べているロバートは、時を忘れ、夢中で勉強していた。
その夕食時に、ロバートはまた父親に叱られた。
『庭ばかりにおって。勉学を疎かにするな』
『はい』
俯くロバートを見た夫人は、息子を庇った。
『あなた。ロバートはあなたに言われて庭の木の数を』
『お前は黙っていなさい』
『……ごちそうさまでした』
両親の言い合いを避けるようにロバートは自室にこもってしまった。自分の悪い点しか指摘しない父親の態度に、ロバートは心から傷ついていた。
……もうダディのことはいいや。さ、今日の木を調べよう。今日の木はええと、そうだ『White shirt(白シャツ)』だ。
この木の名前は、一緒にいた清子の話から彼がつけたものだった。
……風で飛ばされた白いシャツがここに引っかかっていたからって。うふふ。清子って面白いな。
厳しい父親を気遣う母は、幼い妹にかかりきりであった。そんなロバートは
毎日勉強ばかりのつまらない毎日を送っていた。しかし、庭には色んなことを知っている庭師のお姉さんがいた。彼女のおかげでロバートの嫌なことで支配されていた24時間の地図が、少しづつ楽しい事を生み出す時間に塗り替えられていた。
……でも、ミス吉田が言っていた。清子と仲良くするなって。きっと清子の顔が青いからだろうな。ダディも美しいものが好きだから……
ロバートはもう寝る時間だった。彼はそっとベッドに入った。窓の外の光る星、窓を打つ秋の風、月明かり、風で揺れる木の枝が見える夜の中、少年は楽しい明日の庭探検を計画しながら、ほほ笑むように目を瞑った。
そして一週間後。雨上がりの庭に薔薇が咲いた。ロバートは嬉しくて母親を誘って薔薇の園にやってきた。
『見て見て』
『まあ?こんなに綺麗なんて?おお、井上ご苦労です』
「サンキュー。マダム」
庭師の井上の挨拶は笑顔だった。ロバートは井上に尋ねた。
「ねえ?清子は?どこにいるの?」
すると井上は、困った顔になった。
「……いいんですよ。さあ、坊っちゃまは奥様と薔薇を見てください」
「そう」
……そうか。清子はマミィとも会ってはいけないのか……
こんなに綺麗な薔薇なのに、こんなに手入れをしたのは彼女なのに、清子に逢えない少年は俯いていた。
母親は息子の憂いに気づかずに花を見ていた。この少年の悲しい姿を井上は目を細めていた。夫人は息子に嬉しそうに話した。
『今年は本当に見事ね。ロバート』
『……うんマミィ。井上の弟子が、一本づつ枝を磨いてくれたおかげなんだ』
『え。これを?』
寂しく語るロバートの言葉に、夫人はびっくりした。
『ロバート。これは棘があるのよ』
『そうだよ。ミス吉田が、そうしろって言ったんだ』
『これを……』
驚く夫人であったが、ロバートは母親の綺麗な横顔を見ていた。清子の存在を知らない母親は何も悪くない。しかし父親は厳しく怖い人だった。母に清子のことを話すと、清子が叱られるかもしれないとロバートは思った。
……薔薇が綺麗なのは、それだけ清子が辛い思いをしたからなんだ。
深紅の薔薇を喜ぶ母の隣にいた少年ロバートは、薔薇を見る事もなく、虚しく空を見上げていた。
そんなロバートは後日、とうとう木の数を調べ上げた。これを家庭教師に提出したロバートは、その結果を父親に見せた。
『どれ見せてみろ。ほう。これは、木の数だけではなく。葉を採取し、そして、種類まで調べたのか』
『うん)』
『……丁寧に書かれているな』
ロバートのレポートは、家庭教師に高く賞賛された。採取した場所、日時、丁寧なこの研究には『僕の庭の植物たち』と命名されていた。
『よくやった』
『本当に?』
褒められると思い、頬を染めたロバートであったが、父は顔を顰めた。
『しかし。まだこれではダメだ。まず、この字が読みにくいし、それにここが』
褒めることなく続けられるダメな指摘を受けたロバートは、悲しさを通り越し、虚しくなっていた。
『わかったか?だからお前はダメなんだ』
『わかったよ。ダディ』
『……ロバート?』
少年がまっすぐ父親を見つめた。悲しい色の目だった。
『ダメな息子でごめんなさい。僕、もう寝るね』
『あ、ああ』
『おやすみなさい』
そう言って少年は父親に背を向けた。彼は淋しく自室に入った。
豪華な室内、たくさんの本、上質なベッド、高価なおもちゃがあった。しかし、どこを探しても彼には愛が見えずにいた。
勉強をしろというのは、本国イギリスに戻った時に自分が困らないためだと彼はわかっていた。厳しくするのも自分に期待しているためだと、彼も言い聞かせていたが、もう限界だった。
……僕が何をしても……ダディは満足しない。僕が愛されることはないんだ……
窓の外の秋の星は哀しく滲んでいた。風は彼の心の中にも吹いていた。
……もうやめよう。僕はダメ人間なのだから。何をしてもダメなんだ……
この夜からロバートは、父親に期待するのを止めた。フカフカのベッドは悲しみの波で濡れていた。
「おはよう清子」
「坊ちゃま。おはようございます。いかがでしたか?お父上は」
完成した植物図鑑を父に見せたはずのロバートの顔は暗かった。
「別に。ダメなところしか言われないもの」
「そう、でしたか」
自分自身も貶されて育った清子は、どんなに頑張っても認めてもらえなかった自分を思い出していた。
ロバートに慰めも、かける言葉もなかった。気休めは返って傷つけるだけと知っていた清子は枝を剪定しながら話した。
「あの、坊ちゃま」
「何だよ」
「……あの研究を続けませんか」
「え」
彼が父親に自分を認めさせたくて頑張った研究は無駄だった。それを清子はまだ続けようと薔薇の手入れをしながら話した。
「もういいよ」
「本物です。あの研究成果は」
「清子」
風の中、マスクを外した清子はそう言った。
「自分で調べた事は本物です。それに、楽しいじゃありませんか?他にもほら、鳥の種類や花の名前もまだ全然進んでいません。これを清子と一緒に調べましょうよ」
太陽を背にし、痣の顔を見せて話す清子は笑顔だった。ロバートには彼女が眩しかった。そんな彼は思わず弱音を吐いた。
「そんなことをしても、ダディは何とも思わない。僕は何をしても認めてもらえないんだ」
「坊ちゃま。坊ちゃまはお父様のために研究をしたのですか」
「え」
「褒められるために勉強したのですか?木に登ったり、葉を拾ったりしたのはそのためですか?」
「そ、それは」
戸惑うロバートに清子は優しく語った。
「清子はこんな顔だから、家族には嫌がられていました。でもね、私を理解してくれた人は、何をしても褒めてくれました。不思議ですよね?同じ事をしているのに怒る人と、褒めてくれる人がいるなんて。でも、清子がしていることはいつも同じ事なのです」
「いつも。同じ……」
「ええ。だから清子は、人の評価は気にしないことにしたのです。大事なのは自分の気持ちです。自分に嘘を付かず最後までやり抜こう、精一杯やってみよう、と思っているんですよ」
清子は手を止めて空を見上げた。青空だった。
「……坊ちゃまはお優しくて、最後までやり通す意地がおありです。さあ、始めましょう。まだ昆虫の調べがまだでしたよ」
「わかったよ」
清子が背後にしている薔薇は散ってしまった。顔の痣がある清子は自分のためにそう笑顔で言ってくれた。ロバートは嬉しかった。
◇◇◇
そうした昼下がりの庭にクマがやってきた。
「おい。清子」
「はい。クマさん」
「お前、薔薇が綺麗に咲いたそうだけど、まさか、枝を拭かされたと旦那様に話してはいないだろうね」
「はい。私、旦那様にお会いしておりません」
「あのさ」
クマは清子を睨んだ。
「お前、坊ちゃまに何を言っているんだよ」
「それは、ただ、話を聞いているだけです」
「嘘つけ!」
「きゃ」
クマは清子を蹴飛ばした。清子は庭に倒れた。
「生意気なんだよ?青痣のくせに、でかい態度で」
「すみません」
「こいつ、こいつ、こいつ!」
清子を足蹴にするクマの様子に、井上が気がついた。
「おい、そこで何をしてるんだ!」
「あら?何でも無いです?ほら、さっさと立て!私が悪いみたいじゃないか」
「……は、はい」
よろよろと立ち上がった清子を井上は守るように立った。クマは細い目をさらに細めた。
「さて。お前は落ち葉はきだ」
「はい」
「庭に葉を一枚たりとも落とすんじゃないよ。さっさとやれ!」
「わかりました」
そう言わないと話が終わらない雰囲気だった。清子は箒を持ち玄関の方に向かった。クマは屋敷に戻っていた。清子は落ち葉はきを始めた。この様子を井上は悲しく見ていた。
……何が立派な英国紳士だ。幼い息子と庭師を、こんな目に遭わせるとは……
多忙を理由に家族を顧みない領事、それにどこか怯える夫人、勝手に場を仕切る使用人達。先代の領事の時から仕えている老庭師の井上は、憂いの気持ちで空を見上げた。
……何か。悪いことが起きねば良いが……
薔薇の花びらが落ちた庭に秋の風は冷たかった。もうすぐ横浜にも、冬が近づいていた。
完
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