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四 拝啓、函館様
横浜で新生活を始めた清子は今朝も元気よく目覚めた。まだ薄暗い秋の朝。元馬小屋の小窓から見える英国庭園の芝生は緑を湛え濃い酸素を作り、爽やかに彼女を包んでいた。
部屋の壁に立てかけられた小さな割れた鏡に映る姿は、青い痣の顔と粗末な作業服。そこに長い黒髪を凛々しく結んだ自分を映した清子は、自分に向かって笑顔で挨拶をした。
……よし!今日もがんばろう!
そして彼女は小屋の戸を開けた。
元馬小屋で暮らしている清子であったが、彼女は自分でトンカチを持ち、傷んだ床や壁に板を打ち、ひとまず生活が出来る程度までは修理を終えていた。
函館時代も自分のことは自分自身でこなしてきた清子は、今までの生活の知恵を存分に用い、毎日の暮らしを充実させていた。
……朝日だわ。綺麗、まるで私はお花の中にいるみたい……
力を使う庭仕事であるが、植物相手の仕事は心が軽かった。手にはスコップ、足元はゴム長靴。帽子を目深にかぶり首には手拭いをまいた。こうして清子は、綺麗になった馬小屋で健やかに暮らしていた。
こうしてこの日も過酷な力仕事を終えた清子は、部屋の隅の小さなテーブルの上に置いてあったロウソクにそっと火をつけた。今夜は手紙を書こうと思っていた清子は、井上から借りた鉛筆を取り出した。
……ええと。サーカスにいたことから書かないとだめね。
函館の愛しい彼の元を離れ、横浜に到着した清子は、すぐにはイギリス領事館に勤務できなかった。彼女は、このことを知らせていないお世話になった少年の源への手紙の書き出しを考えていた。
前回書いた手紙では『元気だ』ということだけを伝えた清子の、この現状は決して好待遇ではない。しかし嘘は書きたくないと彼女は悩んでいた。
そんな清子の小屋の窓を風が揺らした。季節は秋。北国はもっと秋色になっているだろうと思った。
……でも、まずは今も元気だって、安心してもらいたいな。
まず清子は灯の元にて、源へ葉書を書いた。
『げんさま。おげんきですか。わたしはげんきにしています』
そして、長文になると思い、清子は横浜の領事館で仕事をしているとだけ書いた。源はこれで分かってくれるはずだった。そんな清子は函館を出て以来、初めてチャーチル領事にも手紙を書いた。英語はやはり難しい。そこで日本語で書いた。領事館の通訳の水上や、メイドで仲良しのメアリーなら読めるはずだった。
本当のことを書くなら、サーカスの娘に紹介状を盗まれてしまい、当初は領事館に勤務出来なかったと書くべきであるが、清子は問題を大きくしたくなかった。今はこうして働くことができているので清子はこの件を書かないことにした。『今は横浜のイギリス領事館で元気に働いている』、とそれだけを書いた。
……ああ。これを書いているとサーカスのみんなを思い出すわ。今頃はどうしているのかしら。
横浜の次の街は神戸であった。清子は思わず小屋の窓から外を見た。秋の澄んだ空気の夜の中、光る星があった。清子はそっと窓辺に進んだ。
……何てきれいな星なのでしょう。ああ。今頃は……
サーカスのみんなを思い出しているはずだった。しかし。本当は違った。清子には大好きな彼と見上げたあの時の星と重なっていた。
……あの綺麗な夜景を、朔弥様は奥様とお子さんとご覧になっているのね……
朔弥の屋敷は函館山の中腹にあった。そこから見える美しい夜景が今、この星空と重なった。しかし、隣には誰もいなかった。清子は思わず目を瞑った。
……バカね。思い出してもしょうがないのに。さあ、手紙、手紙を書こう……
涙をぬぐった清子は自分にそう言い聞かせ夜の窓を閉めた。そして手紙に封をした。これを明日郵送するだけの清子はほっとしたのか、あくびをした。
この日も早朝から庭仕事。昼にはロバートの相手をし、午後も力仕事を行なっていた。さらに暗くなるまで庭の手入れをしていた清子はもう眠くて限界だった。やがて、彼女は粗末なベッドに入り、優しい寝息を立てながら心寂しい一日を閉めた。
その深夜。月明りに照らされた清子の住まう小屋の扉を、誰かが静かに開こうとしていた。
「ミス吉田。開きませんが」
「し!?お黙りなさい!」
ミス吉田はそういって女中のクマの大きな背を叩いた。
「鍵は合っているのです。ちゃんとおやりなさい」
「声が大きいですよ」
「それはお前の方です」
しかし。鍵は開いたがなぜか戸が開かなかった。そこで二人は小屋の窓辺にそっと移動した。
毎日、清子に過酷な労働を与えているはずなのに、全くめげない清子に二人は怒りを通り越し、疑問を抱くほどだった。こんな二人は今宵、あることを画策していた。
「ミス吉田。この窓は開きそうです」
「では、入りなさい」
「私ですか?」
「当たり前でしょう?さっさとおやり!」
馬小屋の小窓の鍵が緩んでいるのを利用し、クマはその窓を開けた。そして入ろうとした。
「あれ?こりゃ無理ですわ」
「どうしたのですか」
ロウソクの灯りで見ると、この窓辺には花瓶が飾られていた。綺麗な花が飾ってあった。
「私が入ると、花瓶が向こうに倒れますね」
「忌々しい!では違う場所なさい」
そしてクマは、今は板で塞いであった馬の餌である干し草を入れる箇所から、どうにか侵入した。部屋に入ったクマは、ミス吉田を招くために内側から小屋の戸を開けようと静かに向かった。そこで驚いた。
……こいつ?!戸の前にこんなものを置きやがって……
鍵だけではなくそこには心張り棒が施されていた。これで押さえているのなら開くはずがない。クマはこめかみに血管が浮き出すほどの怒りを覚えたが、今は抑えた。そしてこの棒を排除し、外に待機している吉田を招き入れようと戸を開けた。すると、カランカランと音がした。
「え」
「ばか?早く!押さえなさい!」
「これ?」
馬小屋の戸に付いていたのは木の飾り。戸が開くと互いがぶつかり、音が鳴るものだった。今はクマが手で押さえているので、音がしなかった。背が小さいクマは必死につま先立ちをしていた。
「ミス吉田。早く!」
「静かに!」
疲労からか、二人の侵入に気が付かず穏やかに寝息を立てている清子を横目で見たミス吉田は、そっと棚のところに、光るものを入れた。そしてクマと一緒に小屋を出た。月だけが彼女達の犯行を見ていた。
翌朝、目覚めた清子は異変に気がついた。そこで庭仕事にやってきた井上を連れてきた。
「どうした?怖い顔をして」
「井上さん……昨夜、この部屋に誰かが入ったようなのです」
どこかおびえる清子は、部屋の中をまだ確認していた。井上も思わず部屋を見渡した。
「誰かって。泥棒かい?でもここには何もないだろう」
「そうです。それに戸も鍵もかかっていたし……何も取られるようなものはないのですが。今朝起きた時に見たら、この棒が外されていたのです」
「これがかい?ああ。これは足跡かな」
この部屋は土足であるが、確かに清子でもなく井上でもない跡があった。井上は屈みこみ、足跡を見つめながら眉間に皺を寄せた。
「これは、二人分の足跡だな」
「井上さんにもそう見えますか?あら、これは」
清子が気付いた棚は、鉈や草刈り用の鎌が置いてある場所だった。
「どうした」
「私。道具の持ち手は必ず右にしてここに置くのですが、この下に何か、あ」
いつものどこか違う雰囲気があった。そしてよく見るとそこには指輪が置いてあった。
「宝石かね」
「そうみたいです。初めて見ました」
赤く光る宝石の指輪はとても高価なものに見えた。二人はこれをじっと見つめた。
「井上さん、これは私のものではありません」
「では、犯人が置いていったのか」
「そうとしか思えませんね」
不思議に思い、首をひねる清子であったが、井上は怖い顔になった。
「清子。これはお前さんを泥棒にするために何者かがそれを置いていったのではないか」
「……それしかないですね、では他にもあるかも」
慌てて室内を探そうとした清子を井上は止めた。
「いかんいかん!清子よ。とにかくその指輪をここに置いてはおけないぞ。お前が犯人にされてしまう」
「え」
この恐ろしい罠を理解した清子はゾッとした。そして息を呑んだ。
「そうですね、でも、どうやって持ち主に返しましょうか?あ、それとも警察に落とし物で届けますか」
「その時間はないようだ」
井上の声に清子ははっとした。気が付けば屋敷が騒がしかった。井上は真顔になった。
「清子よ。それはわしに寄越せ。私から返す」
「でも、井上さんのせいになります!ああ、どうしよう」
井上は口に出さなかったが、これは屋敷の者の仕業であると清子は思った。おそらく指輪も屋敷の人間のものであろう。しかし清子は屋敷に入れない身分である。指輪を戻すこともできない立場であった。
……「庭で拾った」と、言えばいいかもしれない。でも、信じてもらえるのかしら……
見えない敵は清子を泥棒に仕立て、屋敷から追い出そうとしている。味方はいないと清子は思った。するとこの時、小屋に向かって人が来る音がした。
「清子。お前は」
「井上さん!一旦、戸を閉めて下さい」
この時、清子は咄嗟に足元の土を掘り、指輪を埋めた。すると激しく戸がノックされた。
「開けろ!そこにいるのはわかっているんだよ!」
「さあ。開けなさい」
……やっぱり。ミス吉田とクマさんだわ。
井上はちらと清子を見た。清子は泥の指を拭きながら覚悟を決めてうなずいた。井上はそっと戸を開いた。
「おはようございます。どうされたのですか」
「井上には関係ございませんわ」
「清子!そこを退け!」
「きゃ」
クマはそういって清子を太い腕で突き飛ばした。ミス吉田は眼鏡を直しながら入ってきた。井上は土の床に倒れた清子を起こしつつ尋ねた。
「ミス吉田、これは一体何の騒ぎですかな」
「よくぞ聞いてくれました井上。ないのです。奥様の大事な指輪が」
「そうだ!あんなに探して屋敷にないのだから。きっとお前が盗んだのだ!さあ、出せ、出せ!この青痣女め!」
「きゃあ!」
「乱暴はいかんぞ!」
クマはそういうと清子の作業着の襟を鷲掴みした。これを井上が制している時、ミス吉田は何気なく棚に近寄った。そして動きを止めた。
「クマよ……どこにあるのですか」
「へ」
この様子に部屋はシーンとなった。口を開いたのはクマだった。
「え?ないなんて……」
顔面真っ青のクマは清子から離れた。井上はまっすぐ吉田を見た。
「お二人とも、どういうことか、説明願えますかな」
「吉田さん。あの、これはどういうことですか」
よろよろと立ち上がった清子の言葉に、ミス吉田は額に汗をかき、クマは必死に道具が置いてある棚で何かを探していた。
「ない!ないない!?……くそ!おかしい!嘘だろう?」
まるで獰猛な熊のようなクマは狂気じみていた。
「おい!女!隠してないで出せ!今すぐに」
「そうざます。清子、お前しかいないのですよ」
清子を犯人だと言い切る二人。井上が口をはさむ前に清子はまっすぐ反論した。
「私は全く何も知りません。それに、私は屋敷に入ったこともありません」
「口答えするな」
「そうざます。クマ、この小屋を探しなさい」
「はい!」
クマは壊すように部屋の中を探していた。例の指輪は清子の足の下、土の中で静かに眠っていた。クマはそれを探し出せず狂気じみた声を発しながら結局部屋をめちゃめちゃにした。清子と井上は、部屋を破壊する彼女のどこか楽しそうな顔を恐ろしく見ていた。
「はあ、はあ」
「クマよ。まだないのですか?お前、ちゃんと探したのですか」
「おかしいです。はあ、はあ」
ここで清子は、二人に問いかけた。
「ミス吉田、クマさん。それはどういうものですか?私も探しますので」
「お前は黙っていろ。ミス吉田。他の女中も連れて探しましょう」
「分かりました。清子、お前は今日、この部屋から出てはなりませんよ」
「はい」
そう言うと、二人はひとまず出て行った。清子と井上は呆然とその様子を見ていた。無残な部屋に二人は言葉が出てこなかった。
「井上さん……ミス吉田は、この小屋に指輪があるって確信があるみたいですね」
「ああ、あの二人が夕べ、ここに置いたのは間違いないな」
しかしそれは証拠のない話である。清子は荒らされた部屋をただ見ていた。
……そこまでして。私に出て行って欲しいのね。だったら、そう言えばいいのに……
気に入らない時、こうやって遠回しに意地悪をする人を清子は知っている。今回もそうだと肌で感じていた。
「よほど、私に辞めて欲しいのですね。でも、そう言えばいいのに」
「……何か事情があって、お前さんのせいにして首にしたいのだろう。まあ、良い。それはわしが預かって」
「待って」
清子はそういうとそっと窓の外を見た。すると窓下にはメイド服の背中のリボンが見えていた。清子は忍び足で見つからないように部屋の内部に戻った。
……やっぱり……
そして清子は井上にそっと話した。
「井上さん。これは罠です」
「罠?」
「ええ、クマさんが、まだ窓の下で私達を見張っています。私が井上さんに預けるだろうと思っているのかもしれません」
「何てことだ」
しかし犯人はこれで決まったようなものだった。そもそもあの二人がまっすぐ棚に向かうことがどう考えても不自然である。しかし、この部屋から指輪が見つかれば犯人に仕立て上げられてしまう危険な状況であった。
「さて、どうしたものか」
「このまま井上さんに預けられません。他の方法を考えないと、あ」
この時、清子はふと夕べの手紙を見た。今日、郵便局で出そうとしていたハガキであった。彼女は急いでペンを取った。
◇◇◇
そして、ミス吉田とクマは、女中のミミ子を連れて再び指輪を探しに来た。
「あら?井上はどこに行ったのですか」
「はい。ミス吉田。彼は仕事に行くというので私が持ち物を調べましたが、手紙と小荷物だけでした。指輪は持っていませんでした」
井上を調べたクマは、今度は本格的に清子を調べるつもりだった。この時、小屋に一緒にやって来たミミ子は、びっくりしていた。
「何?この部屋?誰がこんなひどいことをしたのですか」
先ほどの惨劇を知らないミミ子の驚きを、清子は何も言わずにただ吉田とクマを見ていた。吉田はミミ子に命令した。
「ミミ子。それはどうでもよいのです。とにかくお前は指輪を探しなさい。出ないとお仕置きだよ」
「はい……」
「清子!お前はそこに立っていなさい。どこにも触れてはなりませんよ」
「はい」
そんなミミ子は、探しつつ気の毒そうに清子を見ていた。ミス吉田とクマは探すというよりも部屋を壊していった。ベッドは土足で上がり、マットレスもめくっていた。元々何もない部屋を二人はただ汚していた。そのあまりにも暴力的な様子に、ミミ子は探すのをやめてしまった。
「ミス吉田。それにクマ先輩。もうよしましょう」
「何をいうのですかミミ子」
「まだ見つけていないのだぞ!あ?そうだ。まだ探していないところがあった……」
クマは嬉しそうに清子を見た。
「おい。青痣。お前には裸になってもらおうか」
すると吉田も嬉々とした。
「良い考えざます。もはや、そこにしかないはずですから」
「ひひひ。お前は顔も青いのだから。体もさぞ青いのだろうな。どれ、見せてみろ」
手を広げて清子に向かう巨漢のクマを見て、ミミ子は信じられないと立ち尽くしてしまった。
「そんな?……ミス吉田。本当にそんなことをするのですか?それはあまりにも」
「お黙りなさい!さあ、清子。本当に持っていないというなら、それを証明してみせなさい!」
ミミ子の泣きそうな声が響く元馬小屋は、恐怖に包まれていた。鬼の吉田と、獣のようなクマの前、清子は二人を見ていた。マスクから覗くその目は、強かった。
つづく
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