五 妖精の庭

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五 妖精の庭

 函館の秋。街路樹のプラタナスも色を変え冬支度を始めていた。その葉が舞う岩倉ビルにて朔弥は資料を読んでいた。寒がりの彼はグレーのベルベットの上着。ちらと見えるシャツの手首からはカフスボタンが光っていた。これは祖父の形見の品で、どこかお守り代わりに使っていた。そんな朔弥に哲嗣が問いかけた。 「兄上。例の大陸から石炭を輸入する際の見積もりがやっと届いたよ」  弟の彼は濃紺のウールのジャケット姿で忙しそうに尋ねた。 「ああ」 「やはり兄上の言う通り、あれは高すぎだったよ。こっちの会社の見積もりと比べてみると」 「ああ」 「ほら、ここ!最初の会社は航海路を遠回りに計算していたんだよ。実際はその海路は使わないのに。儲けを増やそうとして燃料費を多めにしていたと思わないか?」 「ああ」 「ちょっと拝借」 「あ?何をするのだ」  心あらずの兄の手から書類を奪った哲嗣は、それを読んだ。 「これは……『伊地知家の現状報告その他』って、兄さん、これはもしかして清子さんの?」 「はあ。そうだよ」  朔弥はそう溜息交じりで椅子に背持たれた。 「実家の伊地知家に清子がいるとは思えないが、念のために調べておったのだ」 「そうだったのか」  朔弥が頼んだ調査人のこの報告書には、清子の家族の事が記されていたが、清子の事は不明とあった。 「しかし。これによると伊地知家は清子さんがいなくなって散々のようだな」 「天罰が下ったのだ。いや?それよりもだな。哲嗣、そこに伊地知家には恵山(えさん)に親戚がいると書いてあるだろう」  調査人の報告はこれで終わっていたが、朔弥はまだ続けた。 「実はな。以前、清子が申しておったのだ。恵山に親戚がいて毎年秋に野菜をもらっていると」 「では兄上は、清子さんがそこにいるかもしれないと?」 「わからぬ」  朔弥はすっと立ち上がった。 「しかし。そこに行ってみようと思う。今度の休みに正孝に頼んでみる」 「わかりました。では、あの。先ほどの話だけど返事をしないといけないんだよ」  朔弥の事情はともかく。哲嗣は仕事を進めたかった。しかし。また朔弥は思いに浸り、気が付けば万年筆をくるくるとまわしているようなありさまだった。 「兄上。兄上」 「……大八車でもらってくるのは白菜だったかな。大根だったかな」 「では兄上、この数字でいいですね?」 「ああ。そうだ、たくあんと申しておったから大根か」  朔弥は思いだし、生き生きしていた。それを哲嗣は呆れて見ていた。 「兄上」 「他にも(かぶ)の事も申しておったような」 「あ・に・う・え!」 「何だ?大きな声で?」  朔弥の目の前には、真剣な弟がいた。 「行きますよ」 「どこに」 「恵山です。はい、帽子をどうぞ!今から行けば、暗くなる前に戻れるでしょう」 「あ?ああ」  こうして兄弟は昼前に、車で函館の中心部から活火山の恵山を目指した。哲嗣の運転する車は海を右手に海岸沿いの道を進んでいた。カーブを曲がるたびに小さな漁村が現れる。その子船は昆布漁のようで岸部には昆布が風にそよいでいた。太陽光がまぶしい朔弥は色眼鏡を着け助手席に座っていた。 「兄上、見えるかい?あれが青森だよ」 「下北半島か」  天気が良い日は見える本州の角を、朔弥は目を細めて眺めていた。ここは北海道と本州が最も近い汐首岬であった。青森の大間までは約17.5キロであった。 「案外近いのだな」 「目視ではそうだけど、ここは津軽海峡だからね。あ。今度は左を見てごらんよ」 「おお?これが鉄道の予定地か?」  現在、ここ戸井駅から五稜郭駅まで鉄道路線を作る計画があったことを朔弥は思い出していた。 「兄さん。ここから石炭を積んで、五稜郭まで運べたらすごい経済効果だよな」 「確かに便利であるが。ここは断崖ではないか?この建設費用は膨大になるな」 「それは計算しているさ」 「しかし。戦争が起こったら材料費が高騰するぞ?それに採算が合うとは思えぬな」 「まったく。兄さんには夢がないな」 「現実主義と言ってくれ。あ。哲嗣、馬がおるぞ」 「うわ?ここは海岸なのに?」  道路には道産子がのんびり歩いていた。哲嗣の車は徐行し、そっと通り過ぎて行った。 「はあ。びっくりしたな。ここには野生の馬がいるのか」 「野生じゃないんだよ。飼えない馬主が放牧したら増えているのさ」 「ここには驚かされるな」  こうして二人は海岸線の日浦洞門を通り、資料にあった清子の親戚の農地にやってきた。 「兄上、行きますよ。こんにちは」  積極的な哲嗣はぐいぐい農家の母屋に入っていった。朔弥はこの農地を見渡していた。 ……ここは小高い丘の上で、日当たりが良い。野菜はやはり大根か。 「兄上!こっちだよ。早く」  急かす弟に押されるように朔弥は農家に挨拶をした。そこにいたのは清子の遠縁にあたる老人の男性だった。 「何の用だね?」 「私は伊地知清子と婚約した岩倉と申します。恐れ入りますがここに清子は来ていませんか」 「清子はここにはいませんよ。あの娘はたしか、すごいところにお嫁にいったはずでして」  老人が話しているのは岩倉家のことだった。朔弥も哲嗣も何も言わず話を聞いていた。しかし彼は興奮し、清子は子供のころから家族にひどい目に遭っていた昔話から語りだした。 「顔に痣があるってだけで。あの子は可哀そうに」 哲嗣はこの話の腰を必死に折ろうとしていた。 「あの。それでですね。今どこにいるかを」 「清子はですね。ばあさんの世話もしていたのですよ」 「それはいいですから。今はどこに」 「哲嗣、代われ!あの。我々は清子を探しているのです。行き先を知りませんか」 「行き先?ああ、ちょっと待ってくれ。ばあさん!ばあさん」  部屋に消えた老人。哲嗣はあきれて懐中時計の時間を見ていた。 「兄上、ここにはいないようだ」 「ああ。挨拶をして帰ろうか」 「さあいいよ、あんたたち、お入り」 「え」  母屋は古く暗い部屋であったが、朔弥と哲嗣はいわれるまま入った。古い農家の囲炉裏にはかなりの老婆がそれは小さく座っていた。 「お前さん。清子の行き先を知りたいのかね」 「ええ」 「あんな青痣娘をどうするのさ」  この態度に哲嗣は朔弥の肩を叩いた。 「兄上。この老婆の相手などは無意味です」 「いや。待て、少しだけでも聞いてみよう」  謎の雰囲気の老婆を朔弥はじっと見た。老婆は朔弥と哲嗣を見た。 「そっちの若い方。そんな顔しているけれどずいぶん動物を(あや)めているね」 「え」 「だが。足元には犬が視える……ブチの犬だよ。大きい犬がお前さんの周りをぐるぐる走っているよ」 「哲嗣、どうなんだ」 「……それは狩猟犬です。先日、クマが出た時、やられてしまいましたが」 「それはお前さんを守ったのさ。供養してやんなさい。これからもお前さんを守ってくれるから。して。そっちのお前さん……こいつは」  老婆は朔弥の背後を難しい顔で見ていた。 「お前さんのお爺さんかな。やせた白髪のひげの男だよ。そして、もう一人。比較的若くて、どこかお前さんに似ている男がいるね……絵描きかな」  言い当てる老婆に哲嗣は朔弥の腕をつかんだ。 「兄上、それって礼二おじさんじゃないか」 「かもな」 「その男がお前さんを心配しておるのだ……何だって?」  老婆はぶつぶつと独り言をいいながらを朔弥をじっと見つめていた。朔弥は一歩前にで出た。 「教えて下さい。私は清子を愛しているのです。逢って彼女に話をしたいのです」 「……丘……花が視える、薔薇か?そして……海」  哲嗣と朔弥は息をごくんと飲んだ。 「馬小屋みたいな、そんな小屋が視えるね」 「場所は?」 「おばあさん!教えて下さい」  朔弥と哲嗣の本気の声。しかし老婆はここで首を振った。老人はこれで終わりといい、老婆は奥の部屋によろよろと消えていった。 「旦那さん。今のは何なのですか」 「うちのばあさんはその人を守ってくれる霊が視えるんだよ」    彼はそういって頭をかいた。 「昔は警察の捜査にも協力していたんだけど、最近は年だから断っていたんだが清子のためだと言い出したんだ。まあ、あの言い方だと、生きているということは確かだな」 「あの。もっとその」 「哲嗣。良いのだ。生きているならそれで」  そしてお礼を言った二人は農家の母屋を出て、そっと海を望んだ。 「この海の向こうに、きっといるのだ。清子は」 「兄上」  夕日がさす秋の函館の農地。風で緑が揺れていた。 哲嗣が見た朔弥の横顔はどこか微笑んでいた。 ◇◇◇ 「『カラスがかあ、かあ鳴いている、スズメがちゅんちゅん泣いている。障子が明るくなってきた、早く起きねと遅くなる……』」 「ねえ清子。その歌なあに?」 「まあ?私の歌、聞こえていました?」  横浜の領事館、緑の丘の上。庭の木の枝の剪定作業中。つい、マスクをしているのに気が緩んだ清子は、ふるさとの童歌を歌っていた。この弾んだ綺麗な声をロバートが聞いていた。 「どういう意味なの?」 「これはですね。カラスが鳴き、スズメが鳴いているから、早く起きないと寝坊になる、という歌です」 「面白い!そうか?そうだね。カラスの方が早起きだよね」  庭で嬉しそうな少年を見た庭師の井上も嬉しそうだった。 「坊ちゃまが庭に関心を持って下って。私は嬉しいですよ」 「だって。面白いんだものここは!でも」  ロバートはそういうと、芝生に腰掛けた。 「なんかさ。僕の考えと違うんだ」 「ん?それはどういうことですか」  清子は彼のそばに座った。ロバートは芝生にバターンと倒れた。 「本当の庭ってね。もっと虫や動物がいないと寂しいなって」 「……ここは薔薇が多いので、確かに消毒をしていますものね」  領事自慢のイングリッシュガーデンは完璧で綺麗すぎる庭だった。確かに清子もどこか無機質な気がしていた。ここに寝転ぶロバートは青い空を見ていた。 「本当の庭って。もっと動物がいると思うんだ。蝶が飛んで、鳥がやってきて。僕はそんな庭にするにはどうしたらいいかって、考えているんだ」 「そうですか」  熱心なロバートに感心した清子は、その夜、井上にもらった植物図鑑を必死に読んでいた。 「あった。これだわ」  清子が気にしていたのはロバートが理想とする庭のことだった。清子は、かつて暮らしていた北海道の手付かずの原生林を思い出していた。親戚が農家をしていたため清子は秋には大八車で野菜をもらいに行っていた。今。あの時の草原を思い出していた。 ……あそこは庭とは呼べないけど、とても美しかったわ。  日本古来の植物が咲いていたあの大草原。キタキツネやエゾリスが遊びにきていた森が近くにあった。地味ではあるが花が咲き、華やかではないが木々が枝を伸ばしていた。忘れられない一面の花々。あの風、あの色、あの香り、清子の親戚のおじさんが、簡単に手入れをしていた自然の庭だった。 ……思い出すのよ。この庭とあの庭の違いを……  動物に来てもらうには、餌になるものが来ないとならない。清子はその最初のものを必死に考えていた。そして、図鑑を見てやっとそれに気がついた。その翌朝、彼女は遊びに来たロバートに相談した。 「坊ちゃま。清子も考えました!」 「え?庭のこと?僕も考えてばかりだよ」  少年も動物を呼ぶには、餌になる虫を呼ぶことはわかっていた。それにはどうすれば良いか悩んでいた。 「虫が来ないようにする消毒を止めるのはわかっているんだ。でも、その他にどうしたらいいのかわからないんだよ」 「そうですよね。そこで清子は見つけました。これを見てください」  清子は図鑑の最後の方の庭の写真を彼に見せた。 「これは、自然の庭のようだね」 「そうです、何か、気が付きませんか?」  写真には植物博士が変わった形の麦わら帽子をかぶっていた。ロバートもこれを発見した。 「これは。顔の前に網があるね」 「そうなんです!これは何の帽子が分かりますか?」 「……もしかして。蜂に刺されないようになってるの?そうか、蜂か!」  二人は笑顔でうなづいた。清子もロバートも意見は同じだった。自然の庭の一歩。それは蜜蜂が来るような庭かもしれない、ということだった。 「じゃ。この庭に蜂が来るような蜜の花を植えるってこと?」 「それはもう十分に咲いています。なので、蜂を呼べば良いのでしょうね」 「呼ぶ?……うーん」  この後の考えを清子はロバートに託した。すると数日後、ロバートは清子にノートを見せてくれた。 「これは蜂蜜を取るための蜂蜜箱なんだ」 「これを庭に置くのですか」 「……きっとダディがダメって言うから無理だと思う。だから僕は考えたんだ」  ロバートの考えは蜜蜂の巣を研究し、それに似たようなものなら蜂が使うかもしれない、と言うものだった。ロバートはノートに様々な蜂のミニハウスを書いていた。 「そしてね。蜂が来ると、受粉が進んでどんどん花が咲く。すると茎にアブラムシがついて今度はてんとう虫がそれを食べる。そのてんとう虫を他の虫が食べるんだ」  ロバートはノートにぎっしり想定を書いていた。ここにはもっと虫が集まり最後にはタヌキがやって来る、と計画に入っていた。 「タヌキですか」 「うん。だって、ここには狐はいないでしょう」 「ふふふ。そうですね」  ロバートが描いたタヌキの絵は上手だった。こうしてロバートは父親に内密に自然の庭の研究を独学で進めていた。  そんなある時だった。イギリス領事官は機嫌悪く帰ってきた。この話、翌日。清子はロバートから聞いた。 「ダディは忙しいみたいなんだ」 「お仕事で毎日お出かけですものね」  庭師の清子は基本、外にいるため領事官の外出する様子を知っていた。函館のチャーチル領事官は比較的のんびりだったので、横浜の仕事は大変だと感じていた。 「僕、マミィと話しているのを聞いちゃったのだけど。日本の古い言葉を英語に直さないといけないみたい」 「まあ?それは大変ですね。でも。通訳の人がいますよね」 「黒田さんも忙しいんだって」  ロバートはつまらなさそうに話した。そこで清子、ちょっとだけ話した。 「では。坊ちゃま。日本にはね『馬の耳に念仏』って言葉があるのですよ」 「念仏って、お祈りでしょう?それを馬にしても無駄でしょう?」 「ええ。なので、ありがたい話をしても聞いてくれない様子をいいますね」 「ふふ。面白いね!」  こうして清子は分かりやすい言葉をロバートに伝えていた。ロバートは日本語を理解していたので、彼は上手に解釈していた。 「『二階から目薬』って。それは無理でしょう」 「ふふふ。そうです。意味はですね。あまりにも遠回しのやり方で、効果が出ない、と言うことかしら」 「ははは!もっと聞かせて!清子」  ロバートはいつの間にかノートに書いていた。そして夕刻。彼は部屋に戻るとこれを英訳し、完成させていた。 「なんだ。ロバート。またくだらないことをしているのか。見せてみろ!」 「あ?ダディ」  ノートを取り上げたワトソン領事官。息子がてっきりくだらないことをしていると思ったが、それは違った。 「なんだこれは」 「日本の言葉だよ?面白いんだよ?そこに『燭台もと暗し』って、あるでしょう?」 「ああ」  ロバートは手元のキャンドルを指しながら父親に生き生きと説明をした。 「こんな風に燭台や灯明台は遠くを照らすけど、この下は暗いよね?つまり、あんまり近すぎるとかえって分かりにくい、って意味だよ」 「……よく調べたじゃないか」 「そんなに見たいなら、もっと読んでいいよ。僕、お風呂に入って来なくっちゃ」  息子はそう言って風呂に入ってしまった。ワトソン領事官はこれを通訳の黒田に見せた。 「これをロバートが書いたのだ」 「これを?素晴らしいではないですか?まあ、私が少し手直しをして。これを資料として本国に送りましょう」 「……時間がないのでそうしてくれ。あ?黒田」 「なんですか?領事」 ワトソンはちょっと考えた。 「その作成者は、私ではなく、ロバートにしてくれないか」 「良いのですか?」 「ああ。調べたのは、ロバートだ。それに、これは本国で日本の子供の言葉の紹介に非常に適している。すまないがそれで頼む」 「承知しました」  笑顔の黒田に領事官は思わず恥ずかしそうに頬を染めた。 ……ロバート……このような才能があったとは。  弱虫な男の子だと思っていた彼はこうしてロバートの才能を感じるようになっていた。それは彼にとって嬉しいことであったが、彼自身、厳しく育てられたため、急に優しくできない心境だった。  夜の窓。月明かりの秋の庭。ワトソン領事の心はまるで紅葉するかのように少しづつ優しい色になっていた。 数日後。 「清子!ねえねえ」 「まあ?どうなさいました?」 「ダディと黒田さんに褒められたんだよ」  先日のことわざの英訳をロバートは父親に褒められたと嬉しそうに語っていた。 ……こんなに嬉しいなんて。ああ、やはり坊ちゃまは、それほどお寂しいんだわ。  自分も褒められたことなどなかった清子。今のロバートの嬉しさが身に染みていた。そして。それが裏切られる現実も知っていた。 「坊ちゃま。それはよかったです。でもまだ次がありますよ。自然の庭はどうされました?」 「ええ?まだそれはできてないよ」 「やりましょう!まだまだ、研究に終わりはありませんよ」 「えええ?」  虐げられた清子はわかっていた。人は褒められるために何かをするわけではない。それは全て自分のためである。その成果を人は勝手に褒めたり、貶したり評価するもの。これに一喜一憂せず、自分の気持ちをしっかり持つこと。大切なのは実績。清子はそう思っていた。 「『時は金なり』です。さあさあ、研究ですよ」 「わかったよ。あーあ。さて、部屋に戻って始めるか」  渋々帰っていく少年。ちょっと可哀想であったが、父親に褒められたその後ろ姿は嬉しそうだった。  清子は、彼と同じ年だった頃の出来事を思いながら庭の手入れをしていた。 『カラスがかあ、かあ鳴いている、スズメがちゅんちゅん泣いている。障子が明るくなってきた、早く起きねと遅くなる……』 ……そうか。思い出したわ?この童歌、お母様が歌ってくれたんだわ。  幼い頃、母は清子の顔の青あざを消そうとし、寝る前に薬草を顔に貼って寝かせていたことがあった。これを見た優子が自分もやりたいとわがままを言っていたこと、清子は急に思い出した。 ……薬草が臭うから、貼るのを嫌がる私に。お母様が歌ってくれたんだわ………  厳しい母にそんな優しいことがあったことを清子は思い出していた。 「『カラスが、かあ、かあ鳴いている、鳴いて、いる……』」  出てくる涙。悲しい涙か、嬉し涙か。それは清子もわからなかった。ただ、母にも優しい気持ちがあったこと。清子は少しづつわかってきた。  幼いロバートをそばで見る清子は、こんな自分にも多少の愛がもらえていたと思うようになっていた。  痣がある娘を産んだ母の苦悩。そんな姉を持った妹の苦悩。父の苦悩。どれも誰のせいでも無い悲しい出来事。そんな自分も愛されていた時があったこと。この事実に彼女は涙を拭った。 「ふう!さて。『カラスがかあ、かあ鳴いている、スズメがちゅんちゅん泣いている。障子が明るくなってきた、早く起きねと遅くなる……』」  秋の庭、遠くの海。遠くの水平線は清子には涙色に滲んでいた。 完
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