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Chapter7(第七章)★1975年Diary春
その日の朝は、今にも泣き出しそうなダークグレーの空だった。
広尾にある日赤病院の待合室。私は、ただ、じっと自分の名前が呼ばれるのを待ち続けた..
ふと外に眼をやると、新緑の葉を付けた桜の樹木の枝が、風に揺れている。かなり大袈裟に揺さ振られていて、可憐な顔をした若葉には痛々しいくらい初めて経験する地上世界の試練のようにさえ映った。
この風が吹き止む頃には、きっと大粒の雨が降って来るに違いないという予感があった。
待合室は、人・人・人で混雑していた。背中に赤ちゃんを負ぶった母親。泣き叫ぶ幼児を腕に抱いて必死にあやす母親、その傍で無表情に雑誌を捲る妊婦..深刻な表情で沈黙を保つカップルが並んで座っていたり..
満面の笑みを浮かべてドアから出てくる女性、そうではない人々と様々。
一枚の切り撮られた風景の中で操り人形のように蠢いているようにさえ見える。そして、私もまたその中の一人に過ぎなかった..
しっかりと隔離された脳に、ふいにその時自分の名を呼ぶ声がしたような気がした。いや、呼ばれているのだ。
「橘さん。橘 深雪さ~ん..」 「あ、はい。私です」 「中へどうぞ..」
ひと通りの問診を済ませて内診へ。そして、医師からの通告は、「4週目に入ったところですね。」と、その低い声の主は事務的に或いは真逆に唸ったようにも聴こえた。衣服を整えて、私はドアの外へ出る。書類に何かサインをしたような気もするし何か肝心なことを忘れたような気もした。
病院のエントランスを出ると、外は土砂降りの雨が容赦なく降っていた。傘が無いことに気付いたが、躊躇なく私の二本の脚は通りへ踏み出していた。心が身体に追い着かないみたいに引き摺られながら、止め度目もなく歩いた。すると、ふいに雨が止んだのかと錯覚したが傘を差し出してくれた章がいつの間にか傍らにいた。私は、何かを言おうとしたが、それよりいち早く彼が言った。
「風邪をひいたら、マズい。だろ?」私は、こっくりと頷くと彼の誘導に身を任せるままに歩いた。
地下鉄の駅前にあるジャズカフェ・エンドレス。午後から降り始めた雨のせいで、結構客が入っていた。しかし込み入った話を切り出すには、喧噪的な雑音があって私には都合が良かった。そして彼は、察知していた。
だからこそ、今言っておかなければならないと思った。彼が、口火を切る前に私は静かに、空かさずきっぱりと言った。
「決して、史哉には告げないで」と。
★To be continued
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