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「水取さん、彼氏いるのかぁ、残念」
悪酔いした男性スタッフに顔を近付けられて仰け反ったところを、佐伯がさりげなく間に入ってくれた。
「こら、いい加減にしろ。もう俺達はホテルへ戻るから君たちも帰りなさい。明日は今日よりハードだぞ」
新店舗スタッフの面々はハーイと素直に答えて、其々帰途についた。
その姿を見送ってから、佐伯と並んで宿泊先のビジネスホテルへ向かう。
「やっぱり夜は冷えますね」
羽乃は肩を竦めてカーディガンを掻き寄せた。
「上着を貸そうか」
ジャケットを脱ぎかけた佐伯を慌てて止めた。
「いや、大丈夫ですから」
佐伯は残念そうにジャケットを整えた。
「…羽乃ちゃん、あの彼氏とより戻したんだ」
いきなり訊ねられて心臓が跳ねた。
何で知ってるんだ?祐奈か?
佐伯がこちらを見ているのを感じたが、羽乃はそちらには目を向けずに答えた。
「はい、まあ」
「やっぱりそうなんだ。その指輪また嵌めてるからそうなのかなぁ、とは思ったんだけど。…残念。タイミング逃しちゃったなぁ」
羽乃は佐伯の言葉の意味を考えて、一瞬動悸が激しくなったが、ここは流すべきだと判断した。
「あはは、そうなんですか、残念ですね」
「……本当に残念だと思ってる?」
佐伯の声のトーンが変わり、羽乃は固まった。
…なんじゃこりゃ。ちょっと待て、まさか。
「俺、羽乃ちゃんのこと、わりと本気で狙ってたんだけど」
ねらっ、狙われてたのか。
ぜんっ全然気付かなかった。
啓太の事は言えない鈍感ぶり。
「へぇ。それは…ありがとうございました」
佐伯は吹き出した。
「何のお礼なの」
「好意を持って頂いたことへのお礼というか」
佐伯は足を止めて羽乃を見た。
「羽乃ちゃんって、しっかりしてるけど天然だよね。そういうところがとても可愛いと思ってしまったんだ。俺はバツイチだし、もう三十を超えてるから、黙っているつもりだったんだけど」
羽乃はバッグを握りしめて佐伯を見上げた。
「少し聞いてたんだよね、羽乃ちゃんの元彼のこと。俺だったらもっと大事に出来るのに、って悔しかった。ねえ、もう俺の入り込む隙間は少しもないのかな?」
佐伯は羽乃に一歩近付いた。
羽乃は動けない。
佐伯の手が羽乃に向けて伸ばされる。
その時、着信音が鳴った。
羽乃は急いで鞄の中からスマホを取り出した。
啓太からだ。
羽乃は佐伯に背を向けてスマホを耳に当てた。
「は、はい、どうしたの」
『どうしたの、じゃねえよ、連絡遅すぎ』
「今、こっちのスタッフさん達とご飯食べ終わって帰ってるところだよ。また後から連絡する」
『…アイツと二人なのかよ』
「そうだけど、大丈夫だって」
『…早く帰ってこいよ。うっとおしいかもしれないけど不安でたまんねぇ。羽乃の顔を見て安心したい』
啓太はホテルまでの時間を訊いて、その頃にまた電話をすると意気込んで通話を切った。
羽乃は心配性の恋人に苦笑いする。
佐伯に振り向くと、羽乃は先程の問いに答えた。
「佐伯さんはとても素敵な人だと思っています。でも、今現在、私が佐伯さんと何とかなることはありません。彼氏と新しい関係を築いていくことにベクトルが向いちゃってるので」
「新しい関係…」
「長く付き合ってるんでお互い知り尽くしてると思っていたけど、そうでもなかったんです。彼氏だけじゃなくて私にも改善点があるってことにも気付けたし」
そうなのだ。ついつい言葉を飲み込んで、強がってしまう自分に気付いて、今はもう少し素直になろうと思っている。
「そっか…」
佐伯は残念そうに俯いて頭を掻いた。
「でも、やっぱり惜しいな。出来ればその彼氏より先に俺が羽乃ちゃんを見付けたかったよ」
佐伯は悲しげに微笑んだ。
佐伯が前の奥さんとどういった理由で別れたのか知らないが、一度拗れたものを元に戻すのは難しい、ということは解る。
お互いのベクトルが同じ方向を向いていないと。
私と啓太が別れずに済んだのは、実は奇跡的な事なのかもしれないな、と羽乃は思った。
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