常夏のディクスン・カー

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 常夏の島に雪が降ったことが、悲劇の、おそらくは始まりだった。  もちろん、一年前に妻が、あの自称実業家と知り合ったことが、全ての始まりだったと多くの人が考えるだろうことは知っている。  だが違うのだ。妻とあのにやけた道化を、わたしはそこまで憎んでいたわけではない。  わたしを殺人へと導いたのは、あの夜、ホテルのベランダから見下ろした、中庭の光景だった。  それは雪だった。  中庭を降るはずのない雪が、一面に覆い尽くしていたのだ。そんな一面の銀世界の中で、ホテルの従業員が「ステージ」と呼んでいた、あの木の舞台だけが、黒く、丸く浮かび上がっていた。  そして妻はステージの上にいた。  ステージは、島に古くから伝わるという、民族舞踏だかを演じるために、かなりいい加減に組み上げられた、直径五メートルほどの、何の仕掛けもない木の台だ。  妻が何故、こんな時間にそんなところにいたのかは知らない。もしかしたら、あのバカと逢い引きの約束でもしていて、すっぽかされたのではないだろうか。  薄着のまま、急に気温の下がった屋外で、かなりな時間を過ごしているらしい妻の姿は、上から見下ろしても、惨めだった。  けれど、そのときのわたしを瞠目させたのは、そんなことではなかった。  黒いステージは「雪の密室」だったのだ。  ミステリ好きならご存じだろう。「雪の密室」とは密室殺人のヴァリエーションで、普通の密室なら鍵や閂の下りたドアや窓、壁の代わりを、足跡のない雪原が果たす。例えば、横溝正史の「本陣殺人事件」やジョン・ディクスン・カーの「白い僧院の殺人」で使われたシチュエーションだ。  如何にして、殺人者は犯行現場へ、雪原に跡を残さずに出入りし得たのか? 探偵や読者はこの問いに答えねばならない。  しかし、この「雪の密室」は多くの場合、あまり美しくない。  「雪の密室」殺人を扱ったミステリは殺人現場の周囲を一周する、辛気くさい描写が付き物だ。周囲全てに、足跡がないことを確認しなければ、「雪の密室」は完成しない。  しかも、その時点で雪原は足跡だらけになっている!  密室とは所詮そんなものと、言えなくはない。  けれど美しくないのは事実だ。  しかし今、食堂のベランダから見下ろすステージの周囲には、足跡一つない、三六〇度完璧な雪原が広がっている。妻は雪が降り始める前か途中に、ステージへ渡ったのだろう。  もし、このステージ上で妻が遠目にもはっきりと殺人と分かるやり方で、殺されていたなら、それは完璧な「雪の密室」と言えないだろうか。  しかも、だ。ああ、神よ。  そのとき、まるで天啓のように、わたしはその為のトリックを思い付いてしまったのだ。  もちろん、こんな形で妻を殺すことは、わたしにメリットももたらす。  普通に妻が殺されれば、容疑者の第一はわたしで、その次に二でも三でもなく、四番目くらいにあのバカがいるくらいだ。けれど、こんな形で妻が殺されれば、死亡推定時刻はそこまで厳密ではないから、愚かな警察は一も二もなく、雪が降る前に犯行は行われたと断定するだろう。  雪が降る前なら、わたしにはアリバイがある。そして、あのバカにはない。  つまり、容疑者リストが逆転するのだ。  しかし、それさえどうでもいいことだ。  わたしはこのトリックをやってみたかった。  完璧な「雪の密室」を創ってみたかったのだ。  翌朝、殺人と一目で分かるように、妻の首を切り落としたりしていたので、疲れてしまったのか、わたしは寝過ごした。  しかし問題はない。  ホテルの特異な構造上、中庭が見渡せるのは三階にある食堂のベランダからだけだし、常夏が前提の食堂は昨日から寒くて人は寄りつかなかった。  九時過ぎに始まる朝食までは、誰も妻の死体に気付くまい。  けれども、その朝食にさえ、わたしは遅れてしまった。  わたしが入ったとき、食堂は既に騒然としていて、数人がドアに向かって駆けてきていた。 「おい、大変だ。奥さんが」その一人が、わたしに声を掛けた。「庭で殺されてる」 「何だって?」  せいぜい驚いて見せたわたしは、そこでとんでもないミスをしてしまった。彼らのドタバタした足取りに不安を覚えたわたしは、おもわず叫んでしまったのだ。 「足跡に気をつけろ!」  しかし、彼らは不思議そうに首を傾げた。「何のことだ?」  そのとき感じた、嫌な予感をどう形容すればいいのだろう。弾かれたように、わたしはベランダに駆け寄って、中庭をのぞき込んだ。  そして、わたしが見たものは一面の黒い土だった。  朝日に溶かされた雪は、もうどこにも残っていなかったのである。
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