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龍の列車は夜を飛ぶ 33
目が覚めると、顔を夜兎さんの髪にうずめていたらしい、良い香りが鼻腔をくすぐる。
鼻先を柔らかな髪から細い首筋、白い肩口から背中へと伝わせていると、俺はある事を思いついた。
親指から中指を広げて夜兎さんの肩を測る。後ろから抱いた感覚で、身体の厚みの検討をつけた。
俺の指や掌が夜兎さんの腕や腰を測り、なぞっていると、夜兎さんが緩やか微かに身じろぎした。
「んん」
「おはよ。今日は俺の方が早かった」
肩口に唇を這わせつつ囁くと、首をすくめながら夜兎さんはんふふ、と笑う。
「やっと眠ってる夜兎さんが見れた」
「主詠くん、すーっかり元気になったんやねえ。良かったわ」
「なにそれ」
俺は夜兎さんの上にそっと身体を乗せると、おはようの口付けを交わす。
「二人のところに着くまで、今日はゆっくりしていたら良いよ」
「何言うてんの」
身体を労ると、夜兎さんは俺をよかしてがばりと起き上がり、
「夜兎、寝間着もシーツもお洗濯しといたるわ。これからも二日にいっぺんくらいは忙しくてもお洗濯した方がええと思うで」
「できる限りそうしたいです……」
すたすたと風呂場へ足を向ける。
夜兎さんは俺といる間、ずっと俺の睡眠量や食事内容に気を配ってくれて、俺が一人になることで、再び昼食を摂らなくなったり、生活環境が悪化するのを心配してくれている。
「ほら、夜兎のお洗濯紐貸しといてあげるから。お洗濯してみてや」
長い紐を手にした夜兎さんがひょっこり顔を出す。
……心配だったらずっとこの列車にいて、俺の世話を焼いておくれよ。
そう言いたいのを俺はぐっと飲み込んだ。
++++++++++
お客様を乗せていないので、遅く出ても西の果て国は午後には到着できるだろう。
夜兎さんは食堂車のカウンターに座って図鑑を開きながらうつらうつらしている。
そりゃ眠たいよね、ごめんね。
昨夜の感触や体温が蘇ってきて、また触りたくなってしまう。
無理強いなんてしなくても、互いの身体を絡めて触り合うだけでも充分俺は満たされた。
でも夜をだいぶ越してしまい、必然と夜兎さんはおねむの状態なのだ。
俺は夜兎さんの邪魔にならないよう、音を控えめにしながら自分のことをする。
ちょっとの間離れてしまう夜兎さんのために、夜兎さんの好きなソーダ水を「なみなみ」の瓶に詰めて、何本かあげようと考えたのだ。
水とは違うので、ソーダ水の気が抜けないようにしっかり栓ができてると良いなあ。
瓶を逆さにして確認していると、目を覚ましてこっちを向いた夜兎さんが寄ってくる。
「夜兎さん、これ。良かったら持ってって」
「なに?」
「ソーダ水、瓶に詰めてみたんだ。お屋敷でも飲めるように」
「え!」
カウンターに並べてみると、ちょっとした飾りみたいに見える。
「えっえっ。これ、ええの?」
「ちゃんと気が抜けずにいると良いんだけど。様子をみてみてくれないかな。試作品だから、もし気抜けしたらごめんね」
「はあー」
夜兎さんはきらきらした瞳で瓶をあちこちから眺め、
「嬉しいわあ。とってもお洒落……」
うっとりと溜め息をつくと、
「主詠くん、これ売ってみたらどおやろ。ソーダ水をおうちでも飲めるなんて、とっても素敵やもん!」
俺にそう提案してくれた。
「他の人にも?需要あるかなあ……」
「あるある!」
思いもかけないことを言われ、俺は首を傾げる。
俺一人では思いもつかないことも、二人で日々を過ごす間のやりとりでふいに思いついたりするから不思議だ。
「じゃあ、夏までに瓶入りソーダ水考えてみようかなあ」
「ん!」
これからも夜兎さんと一緒に働けることで、たくさんの新しいことが生まれてくるかもしれない。
夜兎さんがずっとここで働いてたい、と思ってくれたらだけど……。
「そろそろ、西原さん達を迎えに行こうか」
二人の時間が名残惜しいまま声をかけると、夜兎さんも小さく頷いた。
宙に列車が浮き上がると、一度水汲み場をくるりと旋回する。
双子達のお屋敷や曙紅兄さんのお屋敷の屋根が、それぞれ高い木の向こうに臨めた。
見納めとして、身を乗り出してお山の景色を見ていた夜兎さんは、なにかを見つけたのか緩やかに顔を綻ばせた。
でも声をかけるでもなく、ただ、心残りの溶けたようなそんなすっきりした表情で、下のこんもりとした樹々を眺めおろしていたので、夜兎さんは多分誰かを見つけることができたのだろう。
辰沙に良く似た兄の姿を。
++++++++++
この半月、いや、夜兎さんが乗ってくれるようになる前だって、幾度となく行き来してその美しさは判っていたはずだのに、俺と夜兎さんは緑の波打つ草原、葉の色濃い山の峰々、水面輝く湖や浜辺を渡っていくさまを、肩を並べてしみじみと眺めた。
「良いなあ」
「ええねえ」
これほど自然とは素晴らしいものか。
この美しさは春から初夏、この季節だからなのかな。
この先、夏も秋にもそれぞれの美しさを俺達に見せてくれるのかな。
そうだと良いな。
++++++++++
しっかりしたパンに、ふわふわ卵と味付けした肉を挟んだものが今日の昼ご飯だ。
夜兎さんが、もう一度食べたいと言ってくれ、今も美味しそうに頬張ってくれている。
「んー、んまんま」
「夜兎さんて、美味しそうにご飯食べるよねえ」
「せやかて、ほんまなんでも美味しいんやもーん。主詠くんのご飯大好き!」
夜兎さんは今日も俺の作ったものを褒めてくれ、食事をしながらこないだ話題にのぼった寝台列車の話をした。
「夜兎がお手伝いできる時には、年に一度でも寝台車両を走らせて豪華なご飯を提供したらええわ。主詠くんの美味しいご飯、皆に食べてもらいたいもん」
「そう?」
「そう、そんで普段は、もうちょっと軽めのメニューにするとええわ!」
「判った。夜兎さんもメニュー案を考えてね」
自分の料理にそれほど自信はないけど、夜兎さんに上手に乗せられて、俺は調子に乗ってしまいそうだ。
「でも、寝台車両でひと晩がかりで向かうような距離の国がないんだよね……」
片付けがてら、俺は宙を睨んだ。
この列車はいつも、夜には半島に戻ってくるつもりの航路で運行している。
一日で行ける最も遠い国は、今西原氏と辰沙がいる西の果て国だ。
寝台車両を使うのならばあちらこちらへジグザグに飛んでいくか、ひと国ずつ停車に時間をかけるよりない。
「西の果て国だって、ゆっくり行ってもひと晩はかからない……かな」
俺が考え考え話していると、夜兎さんが静かに俺に目を向けたのが判った。
瞬きをしながら俺を見ているのに、真実のところでは俺の向こう側の、ここではないどこか、今ではないどこかを見詰めているような、そんな遠い目をしていた。
なんて淡い、儚い表情なのだろう。
「この世で一番遠いのは、西の果て国やあらへんよ。西の果て国よりもっと遠い国……」
「あるの?」
それがとても密やかで、唱えるような、一種神々しい佇まいだったので、俺は思わず尋ね返した。
そうすると、ここではないどこかを見詰めていた夜兎さんは、美しい瞳の焦点を再び俺に戻してくれた。
それがとても嬉しくて、
「夜兎さんが知ってるなら、いつか一緒に行こうよ」
俺は自然と口にした。
君が行きたいのなら、連れて行ってあげるよ。
一緒に行こうよ。すぐにでも。
そんな気安さを表したつもりだった。
夜通し列車を走らせるのは大変だから、あまり一人ではやりたくないけど、夜兎さんと一緒なら半年に一度か年に一度くらいなら寝台列車でその国まで行ってみても良いなあ。
星の散りばめられた中を、光となって走って行くんだ。
様々な人々の住まう暖かな灯りを、湖面に輝く宝石みたいに俺は眺める。
その景色も、夜兎さんと一緒に見たいなあ。
夜の列車は、音のない世界を走るんだ。
夜兎さんは小さく目を見開いて、唇を動かした。
いや、唇を震わせたのかもしれない。
「……んっ。連れてってな、主詠くん」
大きく頷いた時には、夜兎さんの纏った気配はいつもの朗らかなものに戻っていて、今のひと時は幻だったんじゃないのかと錯覚したけど、夜兎さんは唇を緩く微笑ませて俺に可愛らしい笑顔をくれた。
そして今度は本当に先の景色に目をやって、
「あ!広場が見えてきたわ」
弾んだ声をあげた。
小さく二つの姿が見えた。
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