バタフライ

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 「次の方どうぞ」 「一万五千五百円になります」 凪は春海総合病院(はるみそうごうびょういん)を訪れていた。 先日の入院費を支払いに来ていた。 「ちょうどお預かりします。お大事に」 支払いを済ませ軽く会釈をして重い足取りで病院の通路を歩いた。 病院の待合室は外来の受付で混んでいた。 この病院を訪れている人たちにはきっとその数だけ人々のドラマがあるはずだ。 凪はそんなことをぼんやりと考えていた。 病院の外に出ると小雨が降っていて傘を忘れた凪は濡れながら歩いていた。 やがて空が暑い雲に覆われて大粒の雨が降ってきた。 凪は土砂降りの雨の中を歩いた。 遠くでゴロゴロと雲が唸る音が聞こえていた。凪はびしょ濡れになっていたがそれでもいいと思っていた。気づけば辺りは真っ暗になっていた。 「濡れるよ」 凪の肩に黄色いパステルカラーの傘がかけられていた。 そこにはあの日、凪を救ってくれた女の子が笑っていた。 雨はいっそう激しさを増して二人の身体を濡らしていた。 「風邪引くよ、、これあげるからちゃんと持って」 「ありがとう」 「そんなの良いから。急ごう」 「この先に私のおばあちゃんの家があるから、そこまで急ごう」 二人は走り出した。バシャバシャと水たまりの水が弾けて足元を濡らしていた。 二人は大通りを抜けて公園の横を通り細い通路を走った。 「凪。こっち! こっち」 導かれるように数百メートルほど走るとやがて古い民家が見えてきた。 遠くで雷の音が聞こえていた。 息を切らして門の前に着き二人は呼吸を整えた。 「ここだよ」 「おばあちゃん! 萌だよ。開けて!」 やがて玄関のドアが開いてひとりの老婆に迎えられた。 「萌かい。どうしたんだい?」 「病院からの帰りに急に通り雨が来たの」 「ちょっと休ませて」 「そうかい。大丈夫かい?」 「全然。平気」 萌は笑っていた。 凪は門の前で立ちすくんだままだった。 「凪も上がって」 「でも、、」 「いいの。この前退院したばかりなのにまた風邪引いちゃったら、洒落にならないから、、」 「おばあちゃん。凪くん。私のお友達」 萌のおばあちゃんは慈愛に満ちた笑顔を見せた。 萌は慣れた様子でバスタオルを二つ抱えてその一つを凪に差し出した。 「いいから上がって」 凪はこくりと頷くと萌からバスタオルを一つ受け取った。 家の外では雷がゴロゴロと鳴り、時折閃光のような光と轟音が聞こえていた。 「危なかったね、、」 萌はショートカットの髪の毛を拭きながら凪に向かって言った。 「あ。そうだ。名前言ってなかったね」 「萌。明音 萌(あかね もえ)」 「凪。友崎 凪(ともさき なぎ)」 「知ってるよ」 「どうして。名前知ってるの?」 凪は萌に聞いた。 「何言ってんの。君の入院手続きしたでしょ」 「ごめん、、」 「良いから。いいから。これに着替えて! 弟のだけど、、」 凪はぼさぼさの髪を拭いて萌に渡されたスウェットに着替えた。 「雨止むまで居ていいよ」 「何から何までごめん、、」 「別に良いから。それより【ごめん】は禁止だよ」 「街で倒れた人助けるの人として当たり前でしょ」 「喉乾いたでしょ?」 そう言うと萌は台所から二人分の麦茶を持ってきた。 窓の外では土砂降りの雨で霧が立ちその光景はまるで夏の雪のように凪には感じられた。 萌は一口麦茶を飲んで凪から少し離れた場所に座った。さっきまでの萌が嘘のように何も話そうとはしなかった。 時間だけがただ過ぎていった。薄暗い部屋の中で蛍光灯の光がチカチカと点滅して萌の横顔を照らしていたー どれくらいの時間が過ぎたのだろう。目を閉じて小さく丸まっていた凪を呼ぶ声が聞こえた。深い意識の底で凪は萌の声を聞いていた。 「凪。凪、、起きて」 凪がゆっくりと目を開けると薄暗い部屋の中に眩しい光が差し込んでいた。 雨は上がっていてさっきまでの雨が嘘のようだった。 「大変だったね、、」 「うん」 凪ははじめて萌の顔を見つめた。 透き通るような肌にまだ幼さの残る綺麗な顔立ちをしていた。 長いまつ毛と美しい瞳が印象的だった。 「凪、雨、、雨止んだよ」 萌は凪の方を見ずに言った。 沈黙が流れたー 「帰るね、、」 「スウェットは洗って返すから」 「うん。いつでもいいよ」 「また、おいでね。約束だよ」 「うん」 萌は背中を向けたままだった。 まだ少し濡れている髪の毛が凪の心を締めつけていた。 「萌ありがとう。行くね」 凪はスウェットとバスタオルの入った袋を持って玄関を出た。 水たまりの残るアスファルトの道には太陽の光が乱反射していた。 少し歩いてから凪は振り返った。 その右手には萌が持たせてくれたパステルカラーの傘が握られていた。
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