蝶と結界

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「うーん……来てしまったなぁ……」  古びたA棟を見上げ、花乃は呟いた。  時刻は午後三時。昨日と同じ時間――今日は甘味はないけれど。気が進まないなぁ、と溜め息を吐いた。  ひらり、右手首につけた蝶のお守りが揺れる。取りあえずは、彼の言う通りにしている。友達の八重が、信用できる人だと言っていた。悪い人ではないはず。八重はお守りを買わされたことはないらしいけど。 「本当になんなんだろ……」  やっぱり何か憑いてるとか? 夢とはいえ「呪われてる」と聞いて、気にならないわけではない。心の底から信じてるわけでもない。けど、気になるから一応来てみたのだ。  はあ、と。花乃は重い気持ちを吐き出し、一歩。A棟へと踏み入れた。  三日連続で訪れることになるとは思わなかったと、愚痴のように口から零れる。埃っぽい廊下を進むのも慣れてきたように感じた。  一番奥の部屋まで来た花乃は、ガラリ、扉を開けた。  ――午後の風は穏やかで、ふんわりとカーテンを揺らしていた。ひらひらと蝶が舞い、花乃は息を呑む。  部屋の中心にいた男が振り返った。両手を天井に向けて伸ばし、足をクロスさせた謎のポーズをしている眼鏡をかけた小太りの男―――― 「誰っ!?」  花乃は思わず大声を出してしまった。 「いきなりドア開けて、誰っ!? 失礼でわ?」 「……すみません」 「あら素直。むふふ、むふっ」  気持ちの悪い笑い方をした男は、くいと眼鏡を上げた。  花乃は部屋を見渡したが、夢月がいる気配はない。来いと言ったのは彼なのに。 「……あの、夢月くんは?」 「おや、夢月きゅんに用事?」 「夢月きゅん」 「夢月きゅんは、僕様の彼氏」 「……………………」 「何か言えよー、むふふん」  なんだこいつ。と、花乃はあからさまに嫌な顔を向けた。よくわからないノリで、よくわからないことを言っている。  よし、帰ろう――花乃は踵を返した。 「あ」  目の前に、気怠そうな夢月が立っていた。何となく気まずくて、花乃は目を逸らす。  そんな花乃を無視して、夢月は我が家に帰ってきたかのように資料室へ踏み入れた。 「ハツカ」 「あいあい~」  小太りの男は華麗にターンをしながら、夢月に何かを差し出した。チョコレート菓子だった。  夢月はそれを手に取ると、もぐもぐと口に含む。 「おい、花子。何突っ立ってんだ。さっさと入れ」  夢月が振り向きもせずに言う。花乃はムッと眉間に力を入れたが、すぐにため息とともに抜けていった。お邪魔します、と部屋に入ると扉を閉めた。 「コーヒーお淹れしま~」  小太りの男が準備を始めたのを横目に、花乃はおずおずと夢月の側に歩み寄る。 「あの、夢月くん?」 「ん?」 「あの人は……?」 「数美廿日(かずみはつか)だ」 「……友達?」 「さっき彼氏言ったし!」  くわっ、と口を挟む廿日を無視して、花乃は夢月の言葉を待つ。まさか、本当に恋人同士なわけではないだろう。 「…………」 「なんで何も言わないの? 本当に付き合ってる?」 「付き合ってねぇ」 「そ、そんな……アタシのことは遊びだったのね!」  くう、と今度はハンカチを噛み締めている。夢月は特に反応はしていない。あのノリを思うと、おそらく、いつもの事なのだろう。  ふわん――コーヒーのいい香りが漂ってきた。カチャカチャと食器が擦れる音が、どこか心地よく聞こえる。 「はいはい、お待たせですよぉ。どぞどぞ」  綺麗な装飾のコーヒーカップ。相変わらず、この部屋に不釣り合いだった。  花乃は受ける取ると、こくんと一口。  美味しい――ほろりと安堵するような味わいだった。廿日がウンウンと満足そうに頷いているのが、妙に悔しい気持ちになるけれど。 「えと、それで……私はなんでここに来るよう言われたの?」  コーヒーを飲み終えた花乃は、話を切り出した。夢月から何か言うと思っていたのに、一向にその気配がない。  夢月は花乃を一瞥すると、その視線を廿日に向けた。 「廿日」 「へいへい」  廿日にずいと距離を詰められ、花乃は体を後ろに反らす。さらに詰め寄る廿日は、ふむと首を捻る。 「うーん……ちょっと、不思議な感じ?」 「……えっと……何が?」 「花子氏、夢とかよく憶えてる方でわ?」 「え……」  思わずどきり。  廿日の言う通り、花乃は夢をよく憶えてる方だった。起きたら忘れてしまうということは少なく、最初から最後まではっきりと憶えていることが多い。色も、においもだ。痛みを感じることもある。  なぜ、それがわかるのか。 「……なるほどな」  夢月は納得したように立ち上がると、サングラスを外した。廿日と入れ替わるように、花乃と距離を詰める。  しっかりとサングラスを外した顔を見たのは初めてで、本当に、ムカつくほど綺麗な顔をしている――ぐぬぬ、と唸る花乃に構うことなく、夢月はじっと花乃を見つめる。見つめているけれど、何か別のものを見ているようだった。一体、何を――? 顔が熱を持ち、妙な汗が伝う。こくりと、花乃は喉を鳴らした。 「……ダメだな」 「え?」 「あちゃ~、ダメでちた」 「ダメダメだ」 「いやいや、何が? 何がダメって?」  はー、と長いため息を吐く夢月と廿日に、花乃は苛ついたように顔を顰めた。とても失礼な態度ではないだろうか。よくわからないけれど。  夢月は再びサングラスをかけると、顎に手を当て何かを考え込むように俯いた。廿日も説明する様子はない。  イライラと、花乃の中に溜まる苛立ち。 「ちょっと、何なのよ!」  口調が荒くなる。  しかし、夢月はそれを気にも止めない。澄ました顔で、視線だけを花乃に向けた。 「お前に呪いをかけたのが誰か……を見ようとしたが無理だったって話だ」 「っ、呪い……本当に? その呪いってなんなわけ?」 「あまりよくないもんだな」  そりゃそうでしょう。呪いと言うくらいなのだから――花乃はむっと口を曲げた。夢月から、廿日に目を向ける。鋭くなってしまった自覚はある。  廿日は、おぅっ、と奇妙な声を上げた。 「ちょっと」 「何でしょう、花子氏」 「花子じゃない、花乃よ。は、な、の!」 「……花乃殿」 「ちゃんと、説明して」 「説明と言われましてもねぇー」  うーん、と。廿日はとぼけるように唇を突き出した。  さらに目を釣り上げ睨む花乃に、観念したのか廿日はふーと息を吐き出す。 「……花乃ちんは、境界を持ってるんだなも」 「は? 境界?」 「うむうむ。自分ってものがしっかりしてるというかぁー、自分を見失うことがないというか?」 「どういうこと」 「あんま、他者に同調することないっしょ?」  花乃は言葉を呑み込んだ。  子どもの頃、相手の気持ちを考えるのが苦手だった。だって、わたしはあの子じゃない――そう思っていた。けれど、体が成長するように、心も成長するもの。相手のことを考える、ということが自然とできるようになっていた。  それでも、他人の痛みはその人のもの。決して、私のものではない。そう、心の奥では思っていた。  人の痛みがわからない――それが、自分の欠点であると、そうも思っている。  それにしても、なぜ廿日はそれがわかったのか。 「ああ、別に悪いことじゃないんだなー。そういう意味で言ったんじゃないし? 拙者が言いたいのは、自分と他者の線引きができるってことでござる」 「……あんた、そのコロコロ変わる口調なんなわけ?」 「むふっ、人を苛立たせる天才と呼んで?」 「呼ばない」  なるほど、苛立ったら負けなわけだ。  ふー。長い息を吐き出した夢月が、サングラスをずらし目頭を押さえた。 「……まあ、仕方ない。花子、お前に呪いかけそうなやつとか心当たりは?」 「ないわよ……」 「なら、周りを注意して見てな。お前を恨んでる人間がいるはずだ」 「そんな……こと、言われても……」 「とりあえず、さっき渡したお守り、五円な」  夢月が手を突き出す。花乃は顔を顰めると、その手に五円玉を叩きつけた。
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