蝶と結界

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蝶と結界

 この大学には、神様がいる。  それも、恋愛の神様。  大学の敷地の隅に、小規模の社がある。鳥居もあるが、猫くらいしか通れないような小ささだ。どうしてここにあるのか、誰が建てたのか、そもそもどんな神様を祀っているのか――誰も知らない。  けれど、そういう場所は人々の願いを集めてしまうもの。いつしか、恋愛の神様がいると噂されるようになった。ひっそりと存在しているお社に、こっそりと願う者たち。恋愛成就の小さな神社。人は皆、そういうものが大好きなのである。  ちなみに、これは祠だと述べる者もいるが、この大学は神道系というわけではないため、多くの者はその違いを気に留めはしない。  神に願うというのに、いい加減な心構えだ。そんな非難の声も、日々の雑音にかき消されてしまうだけ。  芳川花乃(よしかわはなの)も、そのひとり。  手を合わせて、念入りにお願いをする。どうか、この恋が叶いますように、と。  数分はそうしていただろうか。風が吹いて、首元から冷気が入り込む。長い髪をばっさり切ってしまったため、ショート髪には厳しい季節だ。ふるり、震えて顔を上げた。 「ふう……。あとは……」  花乃は踵を返す。  向かう先は、この小さな神社と同じくらい古いA棟。取り壊されると、何年も言われているにも関わらず、ずっとそのまま放置されている。神社と関係があると噂されているが、本当のところは知らない。先生たちでさえ知らない。この大学の七不思議だ。  A棟が使われることはほとんどなく、サークル活動に使用する者が時々いるくらいだろうか。あとは物置きになるくらいだ。  そこに一体どんな用があるのか。花乃は初めて踏み入るA棟の入口を見つめ、ある噂を思い出す。  ――この大学には、神様がいる。それも、恋愛の神様。  そして、神使がいるとも言われている。神使とは、その名の通り神の使いだ。その神使が、このA棟にいるのだと、遠くに引っ越した友達が教えてくれた。その友達は、告白がうまくいったのは、その人のおかげだと幸せそうに話してくれた。  花乃は意を決して、一歩を踏み出した。  埃やカビのにおいがふわりと舞う。どきどきと、心臓が音を立てる。古い本が積まれた廊下を進み、一番端、ドアが開かれている部屋が見えた。あの部屋だ――花乃はごくりと喉を鳴らした。  プレートには資料室と手書きされている。  ふう、と息を吐き出して、いざ。 「す、すみませーん……」  震え声が空気を伝う。  部屋の中に人がいた。雑に積まれた本に囲まれ、椅子に座っている男性――少し癖のある髪と、真っ黒なサングラス。友達に聞いた特徴と同じだ。本来サングラスは目を守るためのものだが、どうにも、怪しいものと結びつけてしまう。どきどきする心臓を抑えて、拳を握る。 「あの……」  花乃はドアの前で声をかけたが、反応がない。 「あの、すみません」  反応は、ない。 「すみません!!」  部屋に入って、男性の近くで声をかけた。 「……んあっ?」  間の抜けた声が返ってきて、眠っていたのだと気づいた。なぜサングラスをかけているのだろう――首を巡らせる男性を見つめ、本当にこの人が? と、疑う気持ちが湧いてくる。  男性は寝ぼけているのか、ほんの数秒、花乃に顔を向けたまま固まっていた。 「……どちらさん?」 「芳川花乃といいます」 「はあ……で?」 「あなたが、恋愛の神様の使い……ですか?」  何を言っているのだろう――急に現実に引き戻された気がして、少し恥ずかしくなる。神様に願いはしたが、心底信じているわけではない。  男性は、どう見ても普通の、少々だらしない感じに見える人間だった。もう少し神秘的なオーラでもあれば良かったのだが。サングラスのせいで、神秘的ではなく不審者っぽい。 「あんた、俺が神様の使いに見えるのか? それも、恋愛の」 「見えないです」 「じゃ、用はないな」  しっしっ。男性は手で追い払うような動作をすると、大きなあくびをした。  ムッ――花乃は眉をつり上げる。 「見えないけど、あなたがそうなんでしょ!? 友達に聞いたの!」 「友達って?」 「八重……岡部八重(おかべやえ)」 「………………………………ああ、引っ越すから告白したいって」 「そう、その人!」  ずっと片想いしていて、もう会えなくなってしまうからと、告白を決意した八重。けれど、大人しい性格のせいか、決意したものの、なかなか告白できずにいた。そこで、噂を頼りに彼の元に行ったのだと、そう言っていた。無事に成功して、今は遠距離恋愛をしている。  幸せいっぱいに笑う八重を見て、羨ましくなった。あんな風に、笑ってみたい。 「私の恋も叶えてほしいの……!」 「……相手は?」 「え? 叶えてくれるの!?」 「どんなやつ」 「あ……えっと、一つ上の谷口翔(たにぐちかける)先輩なんですが……すっごく優しくて、物腰も柔らかで、謙虚で……誰にでも平等に接する素敵な人なんです! 高校の頃から片想いしてるんですけど……。先輩はモテるのに彼女作らなくて、今まで彼女いたことないらしいんですけど……」 「……モテる、ねぇ……」 「あの、どうかお願いします!」  男はサングラスに指をかけて、くいと上げた。その奥の眼差しが、心に突き刺さった気がして、花乃は一瞬怯む。 「無理だな」 「…………え?」 「無理」 「はあ!? 無理って……どういうこと!」 「まあ、お呪いくらいはしてやれるが?」 「おまじない!?」 「勘違いしてるヤツが多いんだが、俺は別に恋の神様ではないし、その神使でもない。ちょっとしたアドバイスをしてやることもあるが、それがたまたま、うまくいった。それだけ」  花乃は絶句した。  神様だとか神使だとか、本当に、心の底から信じていたわけではない。  けれど、スピリチュアルな人はいる。霊感があったり、占いができたり。ほんの少しの不思議を操る人はいると思っている。この人も、きっとそうなのだろうと思ってここに来たのだ。 「……おまじないって?」 「あなたの恋が叶いますように――」  男は仰々しく胸の前で手を組み祈るフリをした。それのどこがおまじないだ。怒りが込み上げる。  もういいです、と。花乃はずんずんと部屋を出る―― 「おい」  男に呼び止められ、ちらりと見る。 「そのモテ男関係でトラブルになったら話を聞いてやってもいい」 「……はあ?」  何だそれは。意味がわからないと、花乃は怒りを隠すことなく、今度こそ部屋を出た。  せっかく紹介してくれた八重には申し訳ないが、恋愛の神様と関係があるとはとても思えない。あの様子では、恋の相談すら無縁に思える。アドバイスしたとは言っていたが……おそらく、たまたまだろう。本人もそう言っていたのだ。噂なんて尾ひれがつくもの。  ムカムカ――踏みしめるように歩く。冷たい風が顔に当たって、溜め息。  思えば、身勝手な話だった。彼からすれば、突然訪れた見ず知らずの人間に、恋を叶えて欲しいなどと不躾なお願いをされたのだ。彼が怒るならまだしも、こちらが不機嫌になるなどと。  花乃は冷静になった頭をこつんと叩く。  明日謝ろう――強くなる北風から守るように、襟元をぎゅっと握り締めた。
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