1人が本棚に入れています
本棚に追加
翔が見えなくなってからも、花乃はしばらくその場に留まった。心が浮き立ち、甘い吐息が零れる。
腕を広げ小躍りしたい気持ちをぐっと抑えて、けれど軽快なステップは踏んでしまいながら、花乃はA棟がある奥地へと向かった。
ふと、花乃の脳裏に浮かんだ昨日のこと。
恋のおまじない――まさか、あれのおかげだろうか。あの適当なお祈りで? まさか、まさか。けれど、本当にそうだったら。彼は本物、ということになる。
気持ちが逸る。身体も軽く、飛び立てそうだ。
砂埃に塗れた薄暗い入口を抜けて、ちかちか瞬く古い蛍光灯が、ほんのりと照らす廊下を進む。
カタタ――音が響く。彼がいるだろう資料室から、女性が出てきた。小柄で、少しふくよかな女性が、ぺこぺこと頭を何度も下げている。まさか、あの人も? 花乃は歩幅を小さくする。
体の向きを変えた女性と目が合う。ちょっぴりの気まずさ。お互いに小さく会釈をして、すれ違う――どこかで見た人だった。話したことはないはずだが、同じ講義を受けているのかもしれない。
花乃は抱えていたカステラを持ち直すと、資料室のドアに手をかけた。
「こんにちはー」
蝶が舞っていた。青白く光っている。ひらひらひら――部屋中に、蝶が――
「またお前か」
はっとすると、蝶なんてどこにも飛んではいなかった。あれ、と花乃は首を傾げる。夢でも見ていたのだろうか。
「トラブルでも起きたか?」
「……起きてません。むしろ、素敵なことが起きました」
「そりゃよかったな」
男は昨日と同じく、サングラスをかけていた。癖のある髪を無造作に手で撫でつけながら、大きなあくびをしている。カセットコンロと、やかん。コーヒーの香り。男はこの場に不釣り合いな、細かい模様が施されたコーヒーカップを傾けながら、で? と花乃を見据える。
「あ……えっと、昨日は感情的になってすみませんでした。いきなり訪ねて失礼な態度だったと思います」
「まったくだな」
「ぐっ……誠にすみませんでしたっ。それと!」
「と?」
「昨日のあの適当なおまじない! あれ、本当に効果あるんですか!? さっき、翔先輩に食事に誘われたんですけど!」
「…………」
「もし、あれが貴方のおかげだったら、本当に凄い! どんな恋だって叶えられるんじゃないかって!」
「……ぐっ、クククッ……」
男は苦し気な声を上げた。笑っているようだ。かたかたとコーヒーカップが揺れている。
「おま、おまえ、くくっ……あんなのが本当に効果あると思ったのか」
「え」
「適当に決まってんだろ」
あー、おかしい。男はひとしきり笑って、コーヒーを飲み干した。
花乃の顔がみるみる真っ赤に染まっていく。やっぱり適当なんじゃないか。言おうとして、でも言えなかった。翔と会ったことも、食事に誘われたのも、ただの偶然。浮かれ過ぎて、ありえないことも本当なのだと思ってしまった。
「なるほど、それでお礼ってか。そのカステラ」
「こ、これは……」
「椿屋のか。うまいよなー、そこの」
「ちが、くはないけど……これは! お礼じゃなくて、昨日の失礼のお詫びで……!」
「なるほどなるほど。俺は貰えるものは貰う主義だ」
ん、と男は手を差し出した。確かに彼に渡すために買ったものだ。けれど、どうも素直に渡したくないと思ってしまう。
大人になれ、花乃! 自分に言い聞かせて、花乃はカステラを男の手に乗せた。
「……それは?」
「え?」
「そのクッキー」
「これは私の! 翔先輩に貰った私のクッキー!」
慌ててジャケットのポケットに隠すように押し込んだ。潰れないよう、優しく。
「……へえ。なるほど……。コレの片割れはその先輩にか」
「……え?」
「カステラだけじゃなかっただろ」
「な、なんで……」
「この包み紙。ワンポイントで椿と雪うさぎが描かれてるだろ。椿屋で一番人気を争うどら焼きとカステラ……両方買うと、一方が雪うさぎに耳飾りが描かれたものに変わるんだよ」
「え……」
「知らなかったか? まあ、ちょっとした遊び心だな。で、このカステラの雪うさぎちゃんの耳には、ピンク色の椿が彩ってる。ってことは、もう一つ、どら焼きがあったはずなんだよ」
「…………」
気まずい――サングラスの奥の瞳は見えないが、じっとこちらを見ているのはわかる。花乃はそっと視線を外す。
そんな遊び心があるなんて知らなかった。どういう意味があるのだろう。彼はそれも知っているのだろうか。
「ん? お前……」
「え……?」
ずい。男の顔が近づく。思わず、どきり。サングラスをずらして、じっとこちらを睨みつけてくる。
覗く瞳は深く、深く――おちてしまいそう。
――なんて、思ってみる。けれど、そのくらい深い色をしているように見えた。ちょっぴりカッコイイとさえ思う。
「……さっそくもらってんのな…………」
「え? 何を?」
「ちょっと待ってろ」
そう言うと、高く積まれた本の裏側へと向かい、何かをしているようだった。
一体何なのか――改めて、部屋を見渡す。紙類ばかりが雑に置いてある。おそらく教材に使っていただろう何かの資料の束から、小学校に置いてあるような童話や伝記、小難しそうな哲学本、時代小説、最近流行りの漫画――少女漫画まである。種類も豊富なら、古いものと新しいものとの差も凄い。ずいぶん纏まりがないが、わかるのは、扱いが雑だということ。ただ置いてあるだけなのか、彼が読んでいるのか。
ひょこり、本の上から男の顔が生える。
「こんなもんか。おい、えっと……花子? だっけ?」
「花乃! 芳川花乃!」
「これ。身につけとけ」
「……はい?」
まあ、可愛い。口から零れ落ちた言葉。これを? 身につける? なぜ?
蝶が連なって輪っかになった切り紙だった。それをブレスレットのように、手首に通される。
「いいか、肌身離さずだ。トイレも風呂もだからな」
「……いやいや、何、どういうこと?」
「あー……お守り。みたいな」
「……恋のお守り?」
「いや…………悪霊退散の方」
「悪霊退散の方って何!? 何か憑いてんの!?」
「取るなよ」
ずいぶん念を入れる。真面目なトーンで言われると、不安になるもの。霊的なものは、信じていないわけではないが、体験したことはない。あるかもわからないもの、が正直なところ。
蝶のお守りに触れていると、男は手を差し出した。花乃は首を傾げる。
「金」
「え……金……?」
「タダなわけないだろ。お守りだぞ。本来なら買うもんだろ?」
「押し売りじゃん! ちなみにおいくら!?」
「五円」
「ご……っ!? え、五円? 五円玉一枚でいいの?」
「ん」
花乃は赤い花柄の小銭入れを開く。五円玉……あるな――迷ったが、五円ならいいかと、一枚男の手に置いた。
「まいど」
「本当に五円? あとになって、法外な請求しない?」
「しねーよ。五円玉が必要なんだよ。最近はキャッシュレスの時代だからな。貴重なんだ」
「はぁ……」
男は妙に不細工なカエルの貯金箱に五円玉を入れた。五円玉が必要とは、何に必要なのだろう。五円――ご縁。やっぱり神使なのでは? と、馬鹿なことを考える。とても神様の関係者には思えないけれど。
「そういえば……聞いてなかったけど、あなた名前は?」
「境夢月。夢に月で夢月」
「境……むづき……」
似合わね~~~。花乃は思わず心の中で叫ぶ。知ってか知らずか「俺にぴったりのいい名だろ?」なんて笑っている。花乃は「そうね」と皮肉を込めて返した。
最初のコメントを投稿しよう!