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ふー。息を吐いて、体をぐぐっと伸ばす。そのまま浴槽に身を沈め、頭を縁に預けた。
一日の疲れも、お風呂に入るだけで吹き飛んでいくようだった。今日がいい日だったことも関係しているのだろうけれど。翔とのことを思い出して、思わず顔が緩む。そして、その後のことも――。
もわもわと立ち昇る湯気をぼんやり見つめながら、花乃はそっと右手を掲げた。
揺れる、蝶。紙でできているはずなのに、破けないどころか水分を吸ってもいない。特殊な加工でもされているのだろうか。触れた感じはよくわからない。
トイレも風呂も、外すなと言われたから。そうしているけれど――本当に、何なのだろう。悪霊退散ってどんな意味だろう。
「意味わかんないなぁ……幸せな気分に、この意味不明さが変な混ざり方してるし」
花乃は目を閉じた。せっかく先輩が食事に誘ってくれたのに――こんな思いはしたくない。
境夢月。あのサングラスの男を脳内から追い出さなければ。ちょっぴり、かっこよかったけど。いやいや、違う違う。そうじゃないだろ、と。花乃は目を開けた。開けようとした。けれど、開かない。
おかしいなと思うのに、ああコレは夢だと。夢なら仕方ないと。頭の片隅では、起きろと言っているのに、花乃はそれを無視して、夢に身を預けようとした。気持ちがいいのだから、眠らなくては勿体無い。
意識が沈んでいく――
「おい、花子」
ハッ、と。花乃は目を開けた。誰が花子だ――
「って、え、あれ?」
ここどこ? 花乃は呆けたように口を開けた。
停電でもしたのかと思うほど、辺りは真っ暗だった。というか、何もなかった。ぽつんと、花乃だけが存在している。そして、体を囲うように、蝶が連なり輪になっていた。思わず、右手を見る。
「お守り……ない……え、え? この蝶って、まさか」
「そのまさかだな」
「蝶が喋った!」
聞き覚えのある声だった。
「あ、これ夢ね。私よく変な夢見るのよねー」
「夢だが、現実の夢だぞ」
「ほーら、意味わからんこと言ってるー」
「いいから、聞け」
真面目な声音。覚えがあるのだ。この声に。
「お前、誰かに呪いをかけられたんだよ。今は結界で守ってるが、このままじゃ、いずれ蝕まれていく」
「へえ。呪いかー。人を呪わば穴二つって知ってる?」
「聞けって。とりあえず、そこから脱出だ。蝶が導くから、後を追え」
ひらり、蝶が一頭、輪から離れて飛んで行く。青白く、美しく、ひらひらと。
「……ねえ、あなた、境……夢月……くん。だよね?」
「そうだ」
「私、お風呂入りながら眠ったみたいなのよ」
「だから何だ。いいから早く……」
「私、今、素っ裸なわけよ。見えてたりしてない?」
「見えてねーよ! 興味もねーから早くしろ!」
失礼な。花乃は一瞬戸惑ったが、立ち上がり、蝶を追った。
裸で走るなんて初めてだ。夢でも羞恥心はある。せめてタオルが欲しい。タオルタオル――現れたりしないだろうか。夢ならそのくらいできてもいいだろうに。
どこまで走るのか、蝶はひらひらと迷うことなく進んでいく。
「……はあ、何か、息が……」
苦しいような。
「わっ!?」
腕を何かに掴まれた。見れば、糸が巻きついている。
何これ――解こうと、触れる――
「触るな!」
「へぁ!?」
驚いて変な声が出た。
「ちょっと乱暴だが……仕方ない。出口まで吹っ飛ばすからな」
「はい?」
吹っ飛ばす? って、私を? どうやって??
花乃の疑問はすぐに解消された。輪になっていた蝶が形を変え、正方形に並ぶ。と、次には衝撃波に襲われた。体が浮き上がり、彼の言葉通り、後ろに吹っ飛んだ。腕に絡んでいた糸が、ぶちっ、と音を立て切れる。
「ひぁぁぁっ!?」
また変な声が出た。吹っ飛ぶ勢いが恐怖を感じるレベルだ。ジェットコースター並みではないだろうか。乗ったことないけど。
どこかに激突したら、ケガをしてもおかしくない。このままだと――花乃は目をぎゅっと瞑る。しかし、思ったような衝撃はなく、体はいつの間にか水の中に沈んでいた。がぼがぼと、細かい泡が立って、花乃はもがいた。何とか顔を水面から出すと、口の中のものを吐き出した。薄く目を開くと、そこが浴槽の中だったことに気づく。
はー、はー、と。肩で息を繰り返す。
眠ってしまったから――ずいぶん変な夢を見てしまった。
「溺れるとこだった……お風呂で寝ないようにしないと……危ないわ……」
ふと、右手を見た。蝶のお守りがない。視線を落とすと、ぷかぷかとお湯に浮いていた。ばらばらになって――。
花乃はそれを掬い上げると、眉根を寄せた。
「……む、夢月くーん……? お話できたりしないよねー……?」
返ってくる声はない。当たり前だ。当たり前だが、花乃はホッと安堵の溜め息を零した。
妙に現実味のある夢だったなあ……。きっと疲れているのだろう。花乃はゆっくりと立ち上がった。
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