蝶と結界

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 午前の講義が終わり、ペンケースをバッグの中に置いた時だった。ドンッ――肩に衝撃が走り、花乃は小さく声を漏らした。 「あら、ごめんなさい」  振り返ったのは、とても謝っているとは思えないような、厭味ったらしい顔をした女性だった。化粧の仕方が綺麗なのか、色の乗りが丁寧で、肌に浸透するように馴染んでいた。  ぶつかってきたのはそっちなのに――まるで、お前が悪いと言っているかのように感じた。  花乃は、嫌な顔は裏に隠して「こちらこそ」と軽く笑った。それが気に入らなかったのか、女性はムッと眉間に皺を寄せると、艶のある長い黒髪を振り乱すようにその場を去っていった。  何だったんだろうあの人――嫌な気持ちになりながら、花乃はバッグを肩にかけた。  こんな時は、甘いものでも買って幸せ気分に浸ろう。帰りに椿屋に寄ろうかと考えて、ふと、思い出してしまったサングラスの男。昨日のこと。昨夜の夢が、脳裏に蘇る。 「おい、花子」  そうそう、今みたいに呼ぶ声がしたのだ―― 「え?」  花乃はハッと顔を上げた。  目の前に、サングラスの男。境夢月が立っていた。昨日、一昨日と一般的なウェリントン型のサングラスだったが、今日は丸いものをかけている。 「あ……な、何か用事……?」  思わず狼狽えてしまった。今まさに彼を考えていたことと、昨夜の夢のことで、羞恥心が湧き上がったのだ。夢、ではあるけれど。素っ裸だったことが、どうしても過ぎってしまう。 「お守り」 「え……お守り? あ、あれね、そのお風呂入ってたらバラバラになっちゃって」 「ん」  ん、て? 訝る花乃を横目に、夢月は昨日と同じ蝶のお守りを差し出した。  ぱちくり、花乃は目を瞬かせる。つけていないことに、文句でも言われるのかと思ったのに。というか、なぜ彼はここに居るのか。お守りを持って来ているのか―― 「あ、まさか……! 最初から脆いものだったんでしょ! そんでまた売りつける気ね!? 悪徳商法に手を染めて、いいことなんて何もないわよ」 「確かに五円、貰うつもりだが。たった五円で儲けようとしたら、何個売りつけりゃいいと思ってる」 「……徐々に値段を釣り上げる……とか?」 「そりゃいい」  ハハッ、と夢月は大して面白くなさそうに笑った。  花乃の顔が不愉快そうに歪む。そもそも、お守りを身につける意味もわからない。恋のお守りなら、喜んで五円を渡したところだが、悪霊退散だなんて。ああ、そういえば―― 「呪われてるとかなんとか……」  そんなことを言っていた。夢の中でだけど。  花乃がぽつりと零した言葉に、なぜか夢月は驚いたような反応を示した。 「お前……誰にそれを聞いた?」 「え? えっと……あなたに……夢の中だけど……」  気恥ずかしさで言葉は尻すぼみしていった。あなたに夢で会いました。なんて、どんな告白だ。あり得ない。 「憶えてるのか……」  夢月は独り言のように呟いた。そよ風にも溶けてしまいそうなほど、小さな呟き。けれど、花乃の耳にはしっかりと届いていた。  ――憶えてるのか? それは、どういう意味だろう。まさか、夢じゃなかったとでも?  そんなわけない。否定して、夢月の顔を見る。考え込むように、指を顎に当ててぶつぶつ。 「今日も俺のとこに来い」 「は?」 「必ず来いよ。いいな、花子」 「や、なんで? というか、花子じゃないんですけど!?」  花乃だから! と叫んだ時には、夢月の背中は遠ざかっていた。なんて勝手なヤツ――花乃は唖然とした。  手のひらの上には、蝶のお守り。五円は渡していない。 「~~~~もう!」  自分でもよくわからない、行き場のない感情が噴き出して、すぐに鎮火した。長いため息を吐き出した後、昼食を食べるために食堂へと足を向けた。 ******  蝶が一頭、ひらひらと風に乗っていた。低いところから、ふわり、舞い上がる。  バタタ――蝶が激しく上下に揺れた。何かに引っかかったようだ。振り解こうとしているのか、必死にもがく。けれど、もがけばもがくほど。それは纏わりついて、放さない。  ゆっくりと蝶に近づく、蜘蛛――長い脚が、ナイフとフォークも持つ手に見えた。蝶は毒を注入され、抵抗する力も奪われ息絶えるだろう。  溶かされ、吸われる――夢月は、その光景をただぼんやりと眺めていた。助けることはしない。それが自然の理。そして、あれが蝶の運命だったのだ。 「どうせなら、丸ごと喰らってくれればいいのに」  その機能はないと、知っているけれど。  じわじわと、自分が自分でいられなくなる。それならいっそ――夢月は手で目を覆った。指の隙間から、蜘蛛の食事をじっと見つめる。 「にゃあ~」  夢月の視界を遮ったのは、一匹の黒猫だった。 「……お前」 「にゃぁ?」 「…………はぁ。投げ出したりしねーっての」 「にゃ~~」  黒猫は丸くなると、すやすやと寝息を立て始めた。  自由なやつ、と夢月は呆れたように溜め息を零すと、積まれた本の上に置いていたサングラスをかけた。
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