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「明日から毎週逆剥けできろ」
あいたばかりの目の前の席にむりやり横から割り込むように座ったあんちゃんにむけて、あたしは小さくつぶやく。一瞬ん?と言う顔でこちらを見上げたあんちゃんは、素知らぬ顔を決め込むあたしを見て、気のせいだったかとスマホに視線を落とした。
あたしは密かに笑う。自分が今言ったことが、必ず現実になると知っていたから。
小さな、取るに足らない、地味な、けれども確実に嫌な、呪い。
十年ほど前のことだ。
「ちっくしょー、どいつもこいつもくたばりやがれ!」
あたしはベッドにブサイクな猫のぬいぐるみを思い切り投げつけて叫んだ。
やたらベタベタ触ってくるスケベな係長も、自分のミスを棚に上げてくどくど叱責してくる課長も、人の化粧の粗探ししちゃあ笑い物にしようとしてくる同僚も、浮気がバレて勝手にいなくなったくせに今更しつこく連絡してくる元彼も、ケッコンケッコンうるさい母親も、頼んでもいないのに子供ができましたって写真送ってくる旧友も、みんなみんなうんざり。
うさばらしにビールでも飲もうと、パンストを脱ぎながら冷蔵庫に向かったその時。
一つの声が聞こえてきた。
「いてて……いや、くたばれはいいすぎっしょ」
えっ、この上ストーカーでも侵入してた!? そんな恐怖と驚きを込めて振り返ると、そこには体をさするようにベッドの上に身を起こすブサイクな猫のぬいぐるみがいた。
「ちょっ……な……!」
「はいはいはい悲鳴ストップ。ね。別に君の頭がどうにかなったわけじゃないから。いや、ほんというと頭がどうにかなったのと今僕が現実にうごいていることの区別なんてできないんだけど、それなら頭がどうにかなってたって問題ない、でしょ?」
やけに理屈っぽい言葉に勢いを削がれ、あたしはヘナヘナと床に座り込んだ。
「別にぬいぐるみが意思を持ち出したってわけじゃないから安心して。これは一時的に借りてるだけ。話が済んだらすぐに返す」
「な、なんなのよあんた」
「えっとね、ストレス調整官、みたいな」
「はあ?」
聞き返すと、ぬいぐるみはベッドの上を歩いてきて、ちょこんと端っこに腰を下ろしながら、言った。
「やさしく言おうとしても難しくなるから遠慮なく言わせてもらうとね、世界っていうのは世界内の知的生命体の認識の総和で出来上がっていて、その感情やストレスに存在を左右されるわけ。だから、世界が受け入れることができるストレスの総和やその偏りには、限界がある。そこで僕みたいなのがね、大きな偏りができたところに出張っていっては、修正してんのよ」
「はあ」
わかったようなわかんないような。ただ一つだけ分かったのは。
「つまりあたしのストレスって、なにか手を打たないと世界がやばくなるレベルのものだってこと?」
「うん、まあそういうこと。今のところ緊急性はないけど、念のため手加えておくか、みたいな感じだけどね」
「じゃあなに、明日からあたしのストレスはぱっと消え失せ」
「……とはならないねえ。実際の選択は自分でやってもらわないと」
「自分で?」
「いやいや、今からそいつを殴りに行こうか、とか、そういうんじゃなくてね。君のストレスを他の場所に移してバランスを取るための、効率のいい方法を与えてあげようと」
「ストレスを……移動?」
「そう。まあ言ってみれば一種の呪いだね。君がその溜まった鬱憤を、具体的に誰かへの呪いの言葉として呟けば、その言葉は確実に具現するようになる」
「死ね! 部長死ね!」
あたしは即座に叫んだ。だが猫氏は、ぬいぐるみの分際で、ため息まじりに首を振った。
「早い早い。それに死ねはちょっと」
「え、だめなの?」
「ダメ。それじゃストレスの移動にならないし、損なわれるものの方が大きすぎるでしょ。もっとささやかなやつ。たとえば、そうだな、お腹痛くなれ、とか?」
「毎朝メガネ一〇分以上探せ、とか?」
「そうそう、そんな感じ」
「得意先の受付に鼻毛出てるの見つかれ、とか?」
「絶妙なとこついてくるねしかし」
「カップ麺出来かけのとこに長電話かかってこい、とか、長ガサ持って家出た日は快晴になれ、とか」
「はいはいはいもういいから」
もっと言う気でいたあたしは渋々口をつぐんだ。
「まあそういうのをね、ストレス感じた時に口に出すとさ、それは当の相手のところであらたなすトレスに代わって、あんたの気はおさまるから、結果としてストレス移動完了」
「なるほど、そう言うカラクリね」
「実装されるのは明日からだから、慌てないでね。あと、1日に使える量には制限があるから。ちまちました呪いしか実現しないから気にするほどじゃないと思うけど、一応注意しといて」
「わかった」
頷くとぬいぐるみはパタリと動きを止めた。
もちろん、最初から信じたわけじゃない。最初は夢でも見たんだろうって思ってた。
でも、翌日試しに呟いたら、課長は次の日から毎日一回お茶をこぼし、係長は昼休みのほとんどを家族からの急な電話で潰し、嫌な同僚は醤油とソースを間違えるようになって、どうやらこれは本物らしいと思うようになった。
それ以来、あたしのストレスは確かに軽減した。ちょっとでもイラっとしたらなにか絶妙にちっぽけで嫌なことを適当につぶやく。効果を確認しないとスッとしなかったのも最初のうちだけ。今では確実にそれが起こっていると思えるから、見届ける必要すらない。
止まらなかったタクシーの運転手には、お店で食べようとしたメニューが品切れになっているようにと。横に広がって歩いて邪魔な学生には、休みの日の朝不必要に早く目が覚めるようにと。まずい飯を出す店主には、食事をしようとするたびにトイレに行きたくなるようにと。あたしは毎日、さまざまな人を呪い続けた。
「ごめん!」
「うわっ!?」
一〇年ぶりに声を発したぬいぐるみに驚き、思わず叫ぶ。
「びっくりしたー。あんたなに、また例のあれ?」
「そう、ストレス調整官」
「なんだっていうのよもう……あ、もしかしてサービス終了のお知らせ?」
「サービスっていうか……うん、それだけなら良かったんだけどね。手違いがあって」
「へ? それって」
「うん、実はシステムにバグがあってね。しなきゃいけない、使用制限の警告と制限ができてなかったんだ」
「あー。そういや何も気にしてなかったわ。ちょっと呪いすぎたかな。ごめんごめん」
「うん、そうなんだよ。結構超過しちゃてて。このままじゃまずいんでね。ちょっとずつ返済してもらうことになるんだけど」
「返済? ちょっと、そっちのミスでしょ!?」
「いや、もちろんある程度は保障するんだけどさ、流石にやりすぎっていうか、一般的に想定される呪い方を逸脱してんの。たとえばほら、一週間前のお昼とか、”目つきが気に食わない”で呪っちゃってるでしょ。そんなのが結構あってさ、全額は保険降りないのよ」
「保険……」
「うちの方でもいくらかは持つけどね、まあ保険とうちとおたくで四:三:三ってとこ」
「具体的にはどうすればいいのよ」
「あ、それは自動的に進むから、特にアクションしなくて大丈夫。今日はね、ただそういうことだからよろしくねって通知しにきただけだから」
「自動的?」
「まあそういうことだから。じゃあね!」
「あ、ちょっと待って、まだ話は……」
あたしが止めるのも聞かず、ブサイクな猫のぬいぐるみはがくりとその場に倒れた。
翌日、あたしの指にはさかむけができていた。家を出ようとすると鍵が見つからず、やっと見つけて慌てて家を出たら、駅についてから定期を忘れたのに気がついた。
返済、どれくらいかかるのかな。
目の前で閉まった電車のドアに、あたしは悪態をついた。
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