アイデアが溶けてしまう前に

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「明日の朝にかけ、関東地方に大量のアイデアが降るでしょう」  風呂あがりの俺の耳にテレビから流れるアナウンサーの声が飛び込んできた。画面に目をやると関東地図の各県には電球のマークが付いている。乾き切ってない水滴が短い髪をつたい、フローリングの上に落ちた。 「ちょっとまだ濡れてる」  ソファに座って洗濯物を畳んでいる妻がムッとした表情をする。 「ごめんごめん」  慌てて水の雫をバスタオルで拭く。 ――そうか。明日はアイデアが降るのか。 「アイデアってなぁに?」  カーペットにちょこんと座っている娘が俺に尋ねた。今年で5歳。思えば最後に東京にアイデアが降ったのはこの子が生まれた年だ。知らないのも無理はない。 「そうだな」  説明するより見せるほうが早いだろう。もしかしたら1つや2つくらいは見えかもしれない。俺はリビングを横切り、庭に面している縦長の掃き出し窓を開けた。冷たい外気が暖房で暖められた部屋の中に入ってくる。 「さむぅ」  娘が眉間に皺を寄せる。その顔が先ほどの妻にそっくりだった。 「ほら」  俺は娘を抱きあげる。 「あれがアイデア」 「わあ」  真っ黒な東京の空から、サッカーボール程度の大きさの淡い黄色の光が降ってきていた。それは、タンポポのように風に揺られ、ゆっくりと地面に落ちる。芝生に触れるとパンッと弾け、周囲に波紋のような形で広がった。 「何か聞こえる」  娘がつぶやき、俺も耳をすませてみる。遠くで誰かが叫んでいるらしい。「よっしゃー」とか「きたー」といった歓喜の叫びのようだった。 「必要な人のところに舞い降りたんだ」  俺がそう伝えると娘は首をかしげた。俺はそれ以上の説明はせず、 「確かに寒い」  そう笑ってガラス戸を閉めた。  夜のうちにアイデアの勢いは増したようで、次の日の朝、東京一帯は真っ黄色なアイデアに覆われることになった。 「自転車で行くの?」  朝食を準備しながら妻が言う。いつもより1時間も早く起きてくれたため随分と眠そうだった。テレビを見ると、チェーンをつけていない車がスリップした結果、道路を塞いでしまったというニュースが報じられていた。 「いや、歩いていくよ」  外に出ると、黄金色の雲に覆われた空が俺を出迎えた。雨や雪の日のようなどんよりとした雰囲気を作り出すことはなかったが、太陽の光を浴びれないせいか、いつもの調子が出ないような気がする  会社までの道を俺は歩く。シャキシャキ、と歩くたびに地面から心地よい音がする。登山用の靴を履いてはいるが、地面をつかむ力は普段と比べてどうしても不安定だ。思ったより会社に着くのは遅くなるかもしれない。  大通りに出ると一人の青年が俺の横を通り過ぎた。彼は息を切らしながら走っており、その頭は黄色に輝いている。どうやらアイデアを授かったらしい。 「これはすごい。これはすごいぞ!」  顔を紅潮させながら彼は呟いていた。嬉しくてたまらないといった様子だ。  一方で、じっと空を見上げている人々もいる。彼らは黄色の光を見つけると、獲物を見つけた肉食動物のようにそれを追いかける。だが彼らの意に反し、空を浮かぶアイデアはふらふらと別の場所へと飛んでいってしまう。  アイデアはそれが活かされる人間の元に舞い降りる。こちらからいくら追いかけても、捕まらない時は捕まらないのだ。 「これは」  会社までやってきて俺は、高さが2メートル近くもある壁の前で呆然としていた。それは、降り積もって固まったアイデアたちだった。土と混ざりあって茶黄色の禍々しい色になっている。突起物のないボルダリングの壁のようであり「そびえ立つ」という描写がふさわしい。そしてこの壁の向こうに、俺が勤める会社の正面玄関がある。 「積もったなぁ」  予想はしていたがここまでとは。  俺は裏口へと回り、そのまま非常階段を昇って自分のオフィスに向かった。室内時計を見ると7時過ぎ。当然ながら誰もいない。自分の荷物をデスクに置き、今度は地下倉庫へ向かう。隅に立てかけられていたシャベルの一つを手に取って、再び正面玄関へと戻った。 「端から崩していくか」  シャベルの先端を固まったアイデアの壁に突き刺し、ガリガリと削り取るように崩していく。まもなく他の社員たちも出社してくる。最低でも大人一人が通れる隙間を作らなければ。  ガリガリ。ガリガリ。ガリガリ。  削ったアイデアは通行の邪魔にならないよう、脇の通路に固めておく。  ガリガリ。ガリガリ。ガリガリ。  シャベルで削ってどかす。シャベルで削ってどかす。シャベルで削ってどかす。単純な作業を俺は繰り返す。 「峰山さん、おはようございます!」  背中越しに声をかけられた。振り返ると新卒の飯田が立っている。 「そこ通れるよ」  俺は今しがた開通されたばかりの通り道を指した。 「あざっす」  飯田はペコリと頭を下げ、そして口の端を歪めてこう言った。 「大変っすねぇ」  30半ばで役職がないと。そんな前置きが聞こえてきそうだ。  飯田が通った後も俺は作業を続ける。  シャベルで削ってどかす。シャベルで削ってどかす。シャベルで削ってどかす。  体を動かす作業は良い。  シャベルで削ってどかす。シャベルで削ってどかす。シャベルで削ってどかす。  余計なことを考えなくて済む。  1時間ほど作業をし、入り口を塞ぐアイデアの壁は残り3分の2程度となった。ふと、正面玄関を抜けた先にあるエントランスが目に入る。巨大な横長のポスターが貼られていた。同期の加藤が手がけ、大ヒットした企画の広告だった。それを見ているうちに自然と5年前のことが思い返される。  今日のようにアイデアが降る日だった。加藤は天から降ってきたアイデアを企画書にまとめ、社内のコンペに提出した。その企画は役員達から満場一致で支持された。誰もが加藤にこう言った。 「素晴らしいアイデアだ」  とんとん拍子に加藤の企画は実現し、社外でも高い評価を受け、その年の広告賞を受賞した。5年経った今でもその広告がエントランスに飾られているのは、加藤の話がサクセスストーリーとして分かりやすいからだろう。 ――アイデアさえあれば世界は変えられる  さらに30分程度アイデアを削り続け、いったん作業を中断することにした。通り過ぎた社員の数からして、半分以上は出社できてないようだ。主要な電車が止まってしまったのかもしれない。だが、とはいっても朝礼の時間だ。シャベルをその場に置き、俺は自分のオフィスへ戻ることとする。 「これすごいですよ!」  オフィスに戻ると飯田の声が聞こえてきた。部長に向かって何やら熱弁している。 「とにかく見てください!」  飯田の手には数枚の紙の束が握られていた。話の内容から察するに、新しい企画を飯田が思いつき、それを企画書にまとめたようだ。飯田の頭は淡く黄色に発光している。アイデアを授かったのだ。 「峰山に見せたのか?」  部長が俺の名前を出す。 「まだですけど」 「峰山に見せろ。お前の上司は峰山だ」 「でも」  飯田が肩をすくめる。 「あの人、何もわかってないじゃないですか」  数秒程度のわずかな沈黙。そして、部長は飯田の企画書を受け取った。最初の数ページに目を通す。 「傘に広告をつける」 「はい! 傘の表の面に広告を貼るんです。広告の入った傘はユーザーに無料で配って、傘代は広告主に出してもらって、なんていうんでしょう、フリーペーパーの傘バージョンみたいな!」  入り口にいる俺を部長がチラリと見た。俺はその目をただ見つめ返す。今は俺の上司であり、かつて同期だった男、加藤の目を。 「どうですか? 新しくないですか!」  飯田の言葉に加藤は答えない。代わりに加藤は自分のパソコンを操作し、とある画面を飯田に見せた。 「これは」 「ここ数年で企画コンペに出された案だ。お前と似たようなアイデアがパッと見ただけでも3つはある」 「え、うそ」  飯田は信じられないという表情でパソコンの画面を見た。 「結局、人が思いつくアイデアなんて似たり寄ったりなんだよ。天から降ってくるアイデアだろうが、自力で思いつくアイデアだろうがな」  そしてこう続けた。 「覚えておけ。アイデア自体に価値はない」 「いや、でも」  飯田が反論する。 「加藤さんはアイデアが凄くて一気に色々な賞を」 「違う」  加藤がかぶりを振った。 「俺が思いついた企画なんて最初は酷いものだった。でも、欠点を洗い出してくれた上司がいた。代替案を提示してくれた別部署の人間がいた。実現可能なやり方を見つけてくれた取引先がいた。そしてなにより、ずっと相談に乗ってくれた同期がいた。俺のアイデアが実現したのは、その人たちがいたからだ」  加藤がもう一度、俺を見る。飯田もその視線を追い、俺の存在に気づく。 「エントランスに積もっているアイデア、午前の時間使ってどかしちゃいます」  俺はそれだけ伝えると、踵を返した。  しばらくすると飯田がやってきた。長靴を履き、その手にはシャベルがある。 「手伝っても良いですか?」 「助かるよ」  二人で黙々とアイデアの壁を崩す。  シャベルで削ってどかす。シャベルで削ってどかす。シャベルで削ってどかす。  地道で退屈な作業を、俺たちは繰り返す。 「……あの」  背中越しに飯田が話しかけてきた。 「ん?」  俺は聞き返す。だが、飯田からの返事はない。空耳だろうかと思ったタイミングで、消え入りそうな飯田の声が聞こえた。 「……お時間ある時、企画書を見てもらえないでしょうか?」 「傘のやつ?」 「……はい」  飯田が答える。 「俺、やっぱこのアイデアがイケると思っているんです。だから、似たようなアイデアはこれまでたくさんあったみたいですけど、でも、やっぱり納得できなくて」  飯田の頭部はぼんやりと光ったままだ。 「わかるよ」  俺は笑った。アイデアが降ってきた時、それがこの世界で唯一無二のものに思える。このアイデアが世界を変えるんじゃないかと思えてくる。ワクワクして、ドキドキして、そしてこのアイデアがもたらす未来を描き、居ても立ってもいられなくなる。 「その気持ち、よくわかる」 「俺の企画、いけますよね?」  飯田が尋ねた。 「どうだろうな」  答えながらも俺の脳裏には苦い記憶が蘇る。素晴らしいと信じていたアイデアが、具体的な企画に起こした瞬間その勢いをどんどん無くし、平凡で面白みのないものに思えてきた記憶だ。  アイデアが綺麗なのは宙に浮いて柔らかいうちだけ。固まり始めた途端、みすぼらしく、汚らしく見える。  そんな挫折を何度も繰り返した。繰り返すうちに、段々と怖くなった。どうせまた上手くいかない。どうせどこかで見た平凡な企画にまとまってしまう。そのうち新しいアイデアを探すことを諦めた。そして、気づけば空から降ってくるアイデアは俺に寄ってこなくなった。  飯田がどうなるか分からない。俺と同じ道を辿るのかもしれないし、加藤みたいに大きなチャンスを手に入れるかもしれない。 「俺は面白いと思ったよ」  いずれにせよ、俺にできることは背中を押すことだけだ。 「で、ですよね! そうですよね!?」  飯田は目を大きく見開き、嬉しそうに話し出す。 「まずは駅前とかで無料配布した方が良いと思うんですよ。6月の梅雨の時期までに試作品を作って、そこで試すんです。あとは大学の近く。大学生に向けて居酒屋の広告とか入れて、学生たちも巻き込んで!」  実現が決まったかのように語る飯田の話を、俺はうんうんと聞く。 「峰山さんは出さないんですか?」  ひとしきり話した後で、飯田が尋ねた。 「え?」 「今度のコンペ。峰山さんも出しましょうよ」 「あぁ」  不意をつかれ、俺は言葉に詰まる。そして。 「久しぶりに出してみようかな」  気づけばそう口にしていた。自分で言って自分に驚く。おいおい、お前にもまだ野望があったのか。そんな声が頭の中から聞こえた。 「あ、でも」  肝心のアイデアが今の俺にはない。コンペの締め切りはいつまでだ? そもそも20代の頃と今とでは状況が違う。任される仕事も増えたし、家族で過ごす時間だって確保しなくちゃいけない。体力だって確実に衰えている。 「まぁ」  慌てて俺は次の言葉を探す。まぁ時間があったらかな。そう言おうとした瞬間。 「あ」  飯田の目が俺の頭上に向けられている。 「峰山さん……」  その目線が、ゆっくりと下へと移動してきて。 「どうしたの?」  家に帰ってきた俺を見て妻が驚く。はぁはぁと息を切らしながらも俺は靴を脱いだ。会社からここまで走って帰ってきたのだ。 「ご飯、あとで良いかな!」  自分の部屋へと向かいながら俺は言う。食事をしている時間がもったいない。 「久しぶりだ、この感覚」  パソコンを立ち上げながら俺はつぶやく。何かすごいことが始まりそうな予感。心臓が高鳴って、世界が自分のことを待っているような感覚。  ワクワクして顔がにやける。起動するまでの時間がもったいない。 「早く」  例え、その先に待つのが挫折だとしても。 「早く早く」  例え、また平凡な企画に収まってしまっても。 「早く早く早く」   今はこの企画を考えたくたまらない    このアイデアが溶けてしまう前に。
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