きっと50年後も同じことを言っているんだろうな

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 戸田誠(とだまこと)の幸運は、三年前に全て使い果たしたと言っても過言ではないと思う。  ここ四年、唯一の趣味である懸賞は外れ続けているし、傘を持っていかなかった日に限って土砂降りだし、職場の整骨院では癖のある患者を押しつけられている気がする。その上、今日は味噌汁の気分だったのに味噌を切らしていた。 「今日は絶対、豆腐と油揚げの味噌汁って決めてたのに……」  誠は棚の奥で眠っていたインスタントスープを啜り溜息をつく。今日は手強い患者が多く疲労しており、好物の豆腐と油揚げの味噌汁で自分を労おうと決めていた。 まさか、冷蔵庫に味噌もなければ、一昨日買っておいた豆腐もないとは思わなかったのだ。 「ごめんって。昼にどうしても麻婆豆腐食べたくなっちゃって」  日曜日で仕事が休みだった水野康弘(みずのやすひろ)は朝、誠を見送ったときと同じ部屋着姿のままで、ご飯のおかわりをよそうために炊飯器を開ける。  昼を食べたのが三時間前だったというのに、よくそんなに食べられるなと感心しつつ、生姜焼きの最後の一口を放り込む。 「健康診断、来週じゃないんですか?」  誠の言葉に康弘はしゃもじを持っていた手を止めて、そっと炊飯器を閉めた、かと思えばまた開ける。 「……そうでした。でも、今日はビール我慢したし」 「地元のイケメン弁護士、水野先生の名が廃れますよ。依頼者のご婦人もさぞ悲しむだろうなあ」  誠の恋人である康弘は弁護士だ。地元の女性で知らない人はいないのではないかと思うほど、どこに行っても康弘は声をかけられる。  先生、と書いてプリンスと読む、なんていうのはどこかのご婦人から広まった康弘の愛称で、弁護士というお堅そうな印象から一気にマスコットキャラクターのようにもてはやされている。 そう呼ばれるのも無理はない。恋人であるという贔屓目を差し引いても、康弘の顔立ちは整っている。日本人にしては色素の薄い髪はさらりとしていて、ワックスも強力なものを好まないせいか時折目元にパラパラと落ちてくる前髪が色気を醸し出す。 すっと通った鼻筋に、薄くて小さめの形のいい唇が、小さな顔にそれはもう完璧に配置されている。 その上、誠より若干低いとはいえ、背の高い女性がヒールを履くと丁度いい程度の長身だ。 康弘本人はその扱いが気恥ずかしいようで、「プリンス」呼ばれることに最初こそ抵抗もあったようだ。 しかし、結果的にはその愛称が親しみやすさを生み、県外からも依頼がくるほどになってしまい今は半場諦めているらしい。 「そうやって誠はすぐにからかう……わかったよ。おかわりはやめますよ」 「子供みたいに拗ねないでください」 「だって誠のごはんおいしんだもん。つい食べ過ぎちゃうよ」  全く、地元では一番大規模な弁護士事務所に勤める男とは思えない子供のような発言だ。  そう思いつつ、口を尖らせる康弘が可愛いと思ってしまう自分を内心叱る。  つい先日も、最近少し太ったかもしれないとぼやいていた康弘のためにヘルシー和食の夕飯をつくるため買い物にでたのに、野菜嫌い、油物大好きな康弘の押しに負けて、青菜のおひたしだったはずの作り置きは申し訳程度のナムルと油たっぷり回鍋肉に変わったのだ。  康弘は今年で三十三歳で、二十六になる誠よりも七歳年上である。 たった七年の差だが、康弘と一緒に長生きしたいと思っている誠は、自分より普段の運動量の少ない康弘には健康のために少しでもヘルシーな食事を心がけてほしいと思っている。  だから今日は譲れない、と心を鬼にして、まだ誠の隙を狙っている康弘と目を合わせる。 すると漸く諦めたらしい康弘はおかわりをよそう筈だった茶碗をシンクにいれて降参する。  そのまま洗い物をはじめた康弘が、あっとなにかを思い出したように声をあげた。 「そういえばね、今日宝くじ買ったんだ」 「その格好で出かけたんですか?」  よれた部屋着姿の恋人を誠は凝視する。宝くじ売り場は近辺にないので、購入できるとすれば最寄り駅の反対出口にあるコンビニだろう。しかし、いくら近場とはいえ、地元の法律事務所に勤めている弁護士が休日に依頼者に遭遇……なんてこともないとは言えない。 「違うよ! スマホで! 最近はスマホでも宝くじが買えるんだって!」  濡れて泡のついた手でガラケーから乗り換えたばかりのスマホを持った康弘は誠の思考を察したように慌てて弁解する。  なるほど。と誠は無言で頷く。 「誠は宝くじが当たったらなにがほしい? なにしたい?」  洗い物を終え、濡れた手を軽く振って水滴を垂らしながらリビングのソファーに座る康弘を誠は追いかけてタオルでその手を拭く。 「そうだな……逆に康弘さんは?」  ぱっと思いつかなかった誠は購入者の康弘に質問を返す。  康弘のスマホには購入した宝くじの画面が表示されていて、一等は三億円らしい。 「んー……そうだね。一等が当たったら、いつも昼に食べてる蕎麦に毎日天ぷら二種のっける。それからこのソファーも古くなってきたから新調して……あとは、寝室のベッドもキングサイズにしちゃって、一週間くらい休みとって誠と温泉でも行こうかな」  指折り数えながらあげられていく康弘の夢は、一等の三億円からゼロを一つ、いや、二つ消してもおつりがでそうだ。もっと大きな家がほしいとか、立派な車がほしいとか、ブランド品のバッグや靴がほしいとか、そういった物欲はないものかと思ったが、康弘の性格からいって、多額の臨時収入があってもそれらを望むことはなさそうだと誠は一人納得する。 「なんだか、どっかで聞いたことある台詞……」  そこまで言いかけて、誠は思い出した。四年前、生まれてからずっと貯金しておいたはずの幸運を散財したあの日のことを。康弘に出会い、この手を取ってくれたあの僥倖を。  四年前、二十一歳の大学生だった誠は居酒屋でアルバイトをしていた。  労働基準法なんてあってないような職場は、金曜日の二十時過ぎということもあり客で溢れかえっていた。店内は店員を求める呼び鈴が鳴り止まず、キッチンは畳みかけるようなオーダーに目が回っている。そのなかでも、一際動き回っているのが誠だった。  本来休憩時間だったはずの今も、キッチンで自らグラスに酒を注ぎ、それを客のもとへ運んでいる。  誠は店長にあまり好かれてはいなかった。勤務態度に問題があるとは思っていなかったが、百八十五センチを超えた威圧感のある長身のせいなのか、お世辞にも愛想があるとはいえない上に、よく睨んでいると勘違いされる程度に悪い目つきのせいなのか、理由は定かではないが兎に角、忙しい曜日と時間帯だけシフトを入れられたり、休憩時間にも業務を任されたりする程度には嫌われていた。   その程度なら、まだよかった。が、今回のはあんまりだ。  誠は潰すように体重をかけて頭を下げるよう押さえつけてくる店長を殴りたい衝動に駆られていた。もちろん、店内でそんなことができるはずもなく、その手は両脇にぴたりと添えている。 「大丈夫ですよ、これそろそろクリーニングにだそうと思って先延ばしにしていたんです」  スーツのブランドなど全く分からない誠にも、そのネイビーの生地は高級品だろうというのが感じられた。  今の誠には袖を通すことすら叶わなそうなそれが、誠がぶっかけたビールでぐっちょりとシミをつくっている。慌てておしぼりで拭いたものの、アルコール臭と大きなシミは消えない。 「ほんとーに! 申し訳ありません! クリーニング代は必ず、必ずこの男に責任を取らせますので!」  店長が誠の頭をさらに深く下げるよう押す。誠が粗相をした相手は、この店に一人で飲みに来る常連だった。  普段から温厚そうな話し方で、店員が手の空いた頃を見計らって注文し、長居しない客。 さらにはキッチンの女性スタッフまで一目見ようと顔をだすほどの美貌の持ち主だ。誠の恋愛対象は女性だったが、この男をはじめて見たときはあまりに綺麗で思わず言葉を失ったほどだった。  そんな客に、誠はビールをぶっかけたのだ。それも頭から。  疲労で足下がふらついており、なにかに躓いてしまった気がしたが、それは言い訳にもならない。ここで怒鳴りつけられても、文句はいえないと誠は思っている。 「貴方は彼に自腹でクリーニング代を支払わせるというのですか?」  店長が「えっ」と驚く。男の声はいつも通り穏やかで、けれどどこかに怒りのような、窘めるような印象を与える。  予想外の反応に店長は狼狽し、責任の所在についてぼそぼそと男に説明している。  その言葉を遮った男の声はゆっくりと、そして最後の一手のように的確だった。 「そうですか。僕には貴方が足を引っかけて、わざを彼を転ばせたようにみえましたが……僕の勘違いかもしれませんし、他の方にも伺ってみますか?」  男が微笑み、目配せした反対側の席には店長を睨み付ける団体客に、常連の老夫婦が座っている。誰も口には出さないが、証拠をもっている、と言わんばかりの視線に耐えきれなくなった店長は叫ぶように謝罪し、一人裏方へ戻ってしまった。   一人置いて行かれた誠はどうすればいいのか分からず、立ち竦む。どくどくと弾け出そうなほど心臓が騒いでいてうるさい。 「えっと、戸田くん、君ももういいよ。僕は大丈夫だから」 「え、あ、なんで名前……あ、名札か。そんなことより、本当に申し訳ありません。クリーニング代は必ず。あと、ありがとうございました」  誠はまた男に深々と頭を下げる。男が肩に手を置いて頭を上げるよう促した。 「クリーニング代はいらないよ。そろそろ出そうと思っていたのも本当だし」 「そんなわけにはいかないです」 「んー……じゃあ、見てこれ。宝くじ買ったんだ」 「……え?」  男はおもむろに鞄から宝くじの券を取り出して、少し自慢げに掲げる。 「今日、不幸を使い果たしたから、この宝くじが当たる確率が上がったってこと。僕は寧ろお礼を言うべきだよ。これで昼の月見蕎麦に毎日天ぷら二種の夢が叶うってわけ」  意味がわからない、誠はそう思ったが、男は構わず続ける。 「僕の名前は水野康弘。この近くで弁護士をしているんだ。労働問題に詳しい弁護士も紹介できるからなにかあったら連絡してね」  会計金額丁度のお金と一緒に名刺を渡した男は足早に店を去ってしまった。  なんだか、誤魔化された気がするが、あれ以上食い下がっても迷惑だっただろうか。   名刺の男が最近パートの女性からきいた噂の敏腕イケメン弁護士であることと、今日自分が名札をつけ忘れていたことに気がついたのは、ほぼ同時だった。 「あー……あのあと猛アプローチが大変だったんだよな」 「何の話?」  ベッドのなかでも、まだ宝くじが当選したらしたいことを考えている康弘が、誠の腕の中で背を向けるよう寝返りをうつ。珍しく、心ここにあらずな誠に康弘は不服そうだ。 「康弘さんは、あの頃からいやらしかったなって」 「あっ、ンッ……ちょっと誤魔化されてる気が……するんだけど」  後ろから康弘のシャツのなかに手を忍び込ませ胸の飾りをきゅっと摘まんで刺激する。 さらに不満を募らせる康弘だったが、毎晩の行為に身体は簡単に反応して、耳たぶを甘噛みするとすぐに降参した。  あの頃は、蕎麦だけだった康弘の夢に、当たり前のように一緒に映画を観るためのソファーと、一緒に眠るこのベッドと、行きたいと言っていた温泉が登場している。  それを幸福と呼ばずに、なんと呼べばいいのだろう。  ふと考えた康弘の夢のなかに登場する自分の存在が、誠は嬉しかった。 「宝くじが当たったら、俺は康弘さんとずっと一緒にいたいです」  毎週農家直送の野菜でも買い付けて。そう言って唇を塞げば、恋人の行動を理解できないままの康弘は受け入れながらもまだ不満げだ。  宝くじが当選しようと、しなかかろうと、貴方が拒もうと、どんなことがあってももう離れる気などさらさらない誠は、くるりと康弘を押し倒す体制になり、口角をあげる。 「骨盤、また結構歪んでますよ」 「ッ、それより、こっち、でしょ」 「……明日平日だからって我慢してたのに貴方って人は」  揶揄うように康弘の腰を掴んでいた誠の手が、康弘に誘われて下着の中に潜り込む。 カーテンの隙間から覗く月と、三位当選の通知が二人を静かに見守っていた。 終
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