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その夜、私はアパートにひとり戻ってから、岩尾の言葉を脳裏に浮かべては考え込んだ。
――今の、私が表現する姿を、いちばん、見てもらいたい相手。
それは、なかなかの難題だった。夜が更けて日付が変わり、ひとまず布団に潜り込んだ後も、その問いは私の頭から離れなかった。私はタオルケットをたぐり寄せながら、冴えてしまった目を仄暗い天井に投げては、問い続ける。
――今の、私の姿を、いちばん、見てもらいたい相手。
いや、難題でもなんでもなかった。
私は単に、目を背けていただけだった。私は唐突に、むくり、と布団から起き上がると、灯を付けて、机の上に置いたままのDMの束に手を差し伸べる。そしてそれを一枚手に取ると、気が変わらないうちにと、いささか乱れた字で、宛名面に懐かしいひとりの名前を万年筆で綴った。
「坂本孝史 様」
それは、私の前夫の氏名だった。
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