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「まさか、本当に来るとは、思っていなかった」
「俺だって、朱莉がこんな活動してるとは思わなかったよ」
――数分後、私は半年ぶりに、自分の夫であった男と対峙していた。孝史は、手にしていた紙袋をすっと私に差し出す。
「展示のお祝いを兼ねた、差し入れだよ」
「ありがとう。気を遣わせて、ごめんなさい」
そう言いながら私は紙袋の中身に目をやる。すると、私が昔から好きな洋菓子屋のロゴが目に入り、思わず視界が、じわっ、と滲みそうになる。私はそれを必死に堪えながら、たぶん強張っているであろう笑顔を孝史に向けた。
「どうぞゆっくり見て行って」
それに孝史は無言で応じると、紺の布が張り巡された空間に、静かにその瞳を躍らせた。やがて、さやかのブローチと私の詩集を手にして、私に差し出す。彼が展示を見ていた時間は、10分にも満たなかった。
「あの人へのお土産?」
さやかがブローチをラッピングしている間に、会計を済ませ、所在なげに目を泳がす孝史に、私は思わず意地悪く聞いた。対して、彼はそれにも無言を貫く。結局、作品を受け取ってギャラリーを出て行くまでに、孝史はただ一言、私にこう言い残したのみだった。
「それじゃあ、元気で」
「……あなたもね」
その私の声をかき消すように、ギャラリーの扉が、ばたん、と閉まる。閉まるや否や、私は、一部始終を見守っていたさやかのほうに振り向いて、こう彼女に問いかけた。
「ねえ、私、いま、泣き声になっていなかったかな?」
「ううん。普通の声だったよ」
「本当?」
「うん、本当。朱莉ちゃん、きりっとしてて、格好良かった」
さやかの声には確固たるものがあった。私は思わず安堵のあまり、その場に崩れ落ちる。
「そっか、よかった、よかったぁ……」
その時、胸に抱えていた重い塊が、すうっ、と消え失せたのを感じて、私の頬を一筋、つっ、と涙が伝った。そんな私を、さやかは声をかけるでもなく、ただ、穏やかな微笑みで包んでくれていた。
私にはそれがなにより、ありがたくて、そして、心強かった。
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