一品目・焼き鮭

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 凪が栄養失調で倒れたと連絡が入ったのは去年の春のことだ。  仕事も投げ出して慌てて病院に駆け込めば、苦い顔をした共通の友人が出迎えてくれた。  僕なんかよりずっと豪胆で冷静な友人は、取り乱す僕に落ち着くよう諭し、一つ一つ丁寧に状況を説明してくれた。  凪は拒食が過ぎてほぼ絶食状態だったということ。凪には口止めされていたけれど実は今までなんども倒れているということ。これ以上拒食が続くと本当に死んでしまうかもしれないと医者に忠告されたということ。そのどれもが初耳で、まさしく青天の霹靂だった。  そして久々に会った凪の体は骨と皮だけの貧相なもので、僕はなにも知らなかった自分を情けなく思うとともに、彼にたくさん栄養のあるものを食べさせてやろうと決意するのだった。  服を着込み、食卓についた凪は不安の滲んだ顔で朝食を見下ろした。  今日の献立は焼き鮭、ご飯、だし巻き卵、大根葉の味噌汁、キュウリの浅漬だ。だし巻き卵は凪の好物。大根葉の味噌汁は以前凪が食べて美味しいと言っていたから。  さてどうだろうと様子を窺っていると、凪は少し緊張しながらも箸をつけてくれる。そのまま小さく切り取っただし巻き卵を口に運ぶのを見て、ひとまず胸を撫で下ろした。  凪が拒食になってしまった理由は僕も知っている。彼は食事というものにトラウマがあるのだ。凪にとって食事とは、不機嫌な父親から罵声を浴びせられ続ける時間だった。  怒鳴られれば恐怖で胃もすくむ。だけど食事を残そうものならさらに父親の機嫌を損ねて罵声が酷くなる。怯えて涙を流すと泣きたいのは俺の方だと罵られる。  だから凪は、必死に涙をこらえ、味もわからなくなった食事を無理やり口に詰め込みながら父親の怒りが収まるのをやり過ごすしかできなかったのだ。  そしてそれは父親が死んだ今でも、食事をしようとするたびに罵声がフラッシュバックしてしまうのだという。  同居を提案して一年、凪は少しずつトラウマを忘れられるようになってきたと思う。  最初のころなんかは、フラッシュバックのせいで食事が喉を通らなくて何度も謝っていたものだ。  今にも泣きそうなのに涙を流すこともできないでいる凪を見たときは、話したこともない彼の父親に殺意が湧いたのを覚えている。それに比べたら少量とはいえ食べてくれるようになった今は物凄い進歩だろう。  ただ小さな片鱗は未だ至るところにある。例えば鮭の皮。皮まで食べるなんて意地汚いと蔑まれていたせいで、凪は今まで一度も鮭の皮を食べたことがなかった。 「もし食べきれないようだったら、無理して詰め込まなくてもいいからね。食べるのもゆっくりで大丈夫だよ」  僕がそう言えば、凪はちょっとだけ笑って過保護だなぁと呆れる。熱い味噌汁を飲めばじんわりと広がる出汁の味に緊張が解けたのか、表情が柔らかくなった。ぎこちないとはいえ順調に食べ進める光景に安堵していると、凪は言いにくそうに口を開く。 「鱗が生えたとき、実は安心したんだ。もうご飯なんて食べなくていいのかなって」  僕が黙って耳を傾けると、凪はぽつぽつと続けた。 「生きていると呼吸がしづらいことばかりだ。食べ物なんていつも冷めきってるし粘土みたいに味がしない。だから魚になれば楽だと思ってた。静かで暗い海の底で微睡んでいたかった」  だけど不思議だね。優さんが駆けつけてくれたとき嬉しかったんだ。そう告げる凪の表情があまりに優しくて息を呑む。 「陸に未練ができてしまった。食事なんて怖いばかりだと思っていたけれど、優さんとの食卓は絶対に僕を傷付けないんだとわかってしまったんだ」  だって貴方はいつも笑ってるから。怒鳴りも叩きもせず、ただふわふわと、愛おしそうに微笑みかけてくるから。あたたかいご飯が美味しいのも、たわいのない話を交わすのがどれだけ幸せなことなのかも、貴方が教えてくれたんだ。凪はつっかえつっかえになりながら、柔らかな声音で精一杯伝えてくれた。 「だから、だからね。もう少しだけ、陸に居てあげる」  そう囁いて、凪は空になった食器の前に箸を置く。  この日、凪は初めて鮭の皮を食べたのだった。
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