せぴあ館 桜小町へようこそ。

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「長い坂ですねえ…洋服にしてきて正解でしたね」  ふうと肩で息をしながら、架暁はゆっくりと上ってきた長い坂道を振り返った。  古い街と、新しい街が入り交ざった、不思議な空間。  剥がれ落ちそうな木張りの家屋はすっかり雨風に曝されて艶をなくしてはいるが、切なくなるような懐かしさを覚えずにはいられない。  今時珍しい、漆喰の蔵をもつ、柴垣に囲まれた大きな日本家屋。  そのすぐ隣には、剥き出しのコンクリートの3階建てのマンション。    整備されたアスファルトの脇は、レンガの歩道。  夜にはきっと美しい光を灯すであろう、ブロンズ色のガス灯が均等に並ぶ。  目指す酒屋は、この坂の上だと言う。  古い大店なのだろう。移り行く街並みを見下ろしていただろう、大きな家だと聞いた。 「もったいないですね…これはこれで、調和のとれた街なのに」  年号がいくつも変わり古い時代を捨てて、新しいだけの街に生まれ変わろうとしているのも、それもまた時の流れと言うものなのだろう。  そう思ってはみても、すべて捨ててしまった古き良き時代を、誰も省みることがなくなる日が来るかもしれないと言う事の方が、とてつもなく淋しく思う。  ゆっくりとした足取りで坂をのぼり、もうすぐ坂が終わるという頃、たくさんの人の気配がし始めた。  白蝶酒店。  達筆な字の欅の看板が掲げられた立派な古い酒屋だ。  張り切って指図を出す青年。  荷を運び出す運送屋。  少し寂しそうに離れた場所でぽつりといる、疲れた顔の初老の男性。  男性が、主人だと、すぐにわかった。 「失礼、どちらかへお引越しですか?」  にこやかに話しかけると、主人は力なく首を横に振った。 「いえ、店が古くなりましてね。建て替えをさせていただくんですよ。また新しくなりました暁には、よろしくお願いします」 「そうですか。立派な造りですのに残念ですね」  正面から見上げた酒屋は、それはそれは大切にされて守られてきた家の顔をしていた。 「ああ、その荷物は廃棄するから、別にしてくれる?そう、居間にあったのは全部」  青年の声にふり返ると、運送業者が水屋を運び出しているところだった。 「あちらは処分されるのですか?」 「残念ですが…新しい家には合わないと倅が嫌がりまして」  水屋の引き戸が、カタカタと揺れた。  ああ、わかっていますよ。そのために、こうして来たのですから…。 「突然申し訳ありません。ご主人、私、こういう者ですが、あちらの家具など処分されるというなら是非お譲りいただけませんでしょうか?」  ポケットから若草色の和紙で出来た名刺を出して主人に渡す。 「和家具・古道具はこちらへ。せぴあ館桜小町・店主・架暁…?」 「はい、古い日本家具などを扱っておりまして、時々こうして古いお宅へ声をかけさせていただくこともあるんですよ」 「家具のリサイクルですか?こんな年代物の古い物、使いたい人など、いないでしょう?」 「いえ。水屋を見た限り、とても丁寧にお使いのようです。他のものもぜひ、譲っていただけませんか?最近は若い方もお求めにいらっしゃいますよ」  次々と運び出される家具たちが、当主に向かって、助けを求めていた。  自分たちは、壊れていたいのに、と。捨てないで、と。 「そうですか…。もし、気に入ってくださる方がいらっしゃるなら、お譲りします。誰かに大事にしていただければ、私も捨てたくないと思っていましたから」 「実は午前中、クリーンセンターに寄ってきたのですが、そこで立派な柱時計を見つけましてね。持ち帰らせてもらったんです。とても美しい状態でしたので磨こうと思ってガラスを開けると、こちらの酒屋のお名前が刻まれておりまして。それでお引越しされるのかと思って、立ち寄らせていただいたんです」  声が届くたびに度々駆け込むクリーンセンターでは、大型ごみの日には架暁が朝からやってくるのは珍しいことではなくなっていた。  何度も頭を下げて、廃棄の列に並んでいるものの中から、目当ての「声の主」を救い出すことは架暁には雑作もないことだ。  その日は朝から柱時計を探しに行って、先に店に持ち帰っていたのだ。 「ああ。柱時計は、急に鳴らなくなって、大型ゴミに…」 「修理すれば、鳴りますよ。それから中から、これが出てまいりまして…こちらのどなたかの持ち物ではないかと」  ポケットから取り出したのは、青く透明な中に虹を閉じ込めたような、不思議な色のビー玉だった。 「…これは…雅哉、雅哉!」  息子を振り返った主人が、手招きした。 「なんだよ、親父。忙しいときに…」 「おまえ、小さい頃に大事にしていたビー玉をなくしたといって、ずっと探していたことがあっただろう。これじゃないか」  架暁が差し出したビー玉が、きらりと太陽に反射して光った。 「…あ…」  一瞬息をのんで固まった雅哉に、架暁が手を差し出した。 「昨日ゴミに出された柱時計の中から出てきたんですよ。あなたのものだったんですね」  手を取り、ころりと雅哉の手にビー玉を手渡した。 「そうか、柱時計の中に…。これ、小学校の時転校していった奴がくれたんだ。大事にしてたのに、なくしちまって…ありがとう、届けてくれて」  少年のようにはにかんで、雅哉が笑った。 「旦那さーん!こちらも同じでよろしいですかー?」  和箪笥を運んできた運送屋のひとりがよろめき、バランスを崩した。 「一旦下ろそう」  引っ越しなら厳重に荷物を養生しているのに、廃棄処分ということで、荷物は養生なしで丸裸だった。  地面に下ろされた和箪笥の一番上の引き出しの引き輪が、カタカタと揺れた。  …わかりました。そこに、何かあるんですね? 「すいません。ご主人、こちらの和箪笥、少し拝見させていただいてもよろしいでしょうか?」 「ええ、かまいませんが、何か…?」 「もしかしたら、宝物が出てくるかもしれませんよ」    一番上の引き出しの引き輪に手をかけて、架暁はすっと引き抜いた。  そして、顔を近づけて中をのぞき込む。 「やっぱり…」  架暁は腕を突っ込むと、薄いもう一つの箱を引き抜いた。 「引き出しの奥に、箱が?」  珍しそうに雅哉がのぞき込んで、目を丸くした。 「隠し箱です。たまにあるんですよ。昔の和家具の中には。珍しいことではありません。開けてみますか?」 「開けてみてくれよ。何が入ってるんだ?」  組み木になっている隠し箱を器用に開けると、架暁は中にセピア色に変色した一冊の詩集を見つけた。 「若菜集ですね。写真が挟まっています。『初恋』のページです」  色褪せた島崎藤村の若菜集。その初恋をうたったページに一枚の写真が挟まっていた。 「おや、綺麗なお嬢さんですね。こちらの方をご存じですか?」  写真館で撮られた写真は椅子に座った髪の長い袴姿の少女だ。 「口元にほくろがありますね」  写真を取って、主人に渡す。 「ああ、これは…私の母の若いころですね」 「本の後ろには名前がありますね。白河蓮太郎。ご親戚ですか?」 「私の父です。母の名は蝶子。白蝶酒店の名前のような人と結婚したと聞かされていたんですが、母は早くに亡くなりまして。こんなところに父母の宝が眠っていたなんて…」  懐かしそうに写真を指でなぞる当主は、ほほ笑んでいた。 「こちらもありますよ。懐中時計です。傷もないですし、綺麗な状態です」  蓋は鈍色の真鍮。丸みを帯びた硝子は愛らしいほどにふっくらと分厚い。 「おお、とても古いものですね。まだ動くのでしょうか?」 「手巻き式ですから、まだまだ動きますよ」  当主の手にそっと懐中時計を乗せて、架暁はトラックに乗せられて悲鳴を上げている家具を振り返った。 「ご主人、こちらのトラックの家具、一旦私の店に預けていただけませんか?もしかしたらこうして中から何か出てくるかもしれません。出てきた場合は、全てお返しします。もし新築が出来上がってから手元へ戻したい場合は、そっくりそのままお戻しします。それまで私が保管して磨いておきましょう」 「ですが…何分、トラック一台にもなる量ですから、トランクルームを借りるのも馬鹿らしいから捨ててしまおうと、倅に言われまして。それを預かってもらおうなんて、厚かましいお願いでしょう?」  水屋、茶箪笥、和箪笥、階段箪笥、ちゃぶ台、鏡台、飾り棚、硝子扉の付いた本棚…。 「…悪かったよ。捨てろなんて言って。ただ、俺は俺なりに、きっちりケジメをつけてこれからやっていこうと思ってただけで…。親父が残しておきたいなら、置けるような和室を作ればいい。そこの古道具屋が迷惑でないなら、預かってもらえよ。いらないものはくれてやればいいじゃねえか」  雅哉の声に付喪神達から、安堵のため息がもれる。  危機一髪、命を取り止めたのだ。 「よろこんで。店の方でお預かり伝票をお渡ししますので、一度お越し願えますか?」  ああ、間に合ってよかった。本当に…。
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