5人が本棚に入れています
本棚に追加
「……なんでしょうか」
すっかりあがった息をなんとか整え、次の鍛錬(とでも思わなければやっていられない)に備えるべく覚悟を決めて問いかけたクラウスに、身につけているのは上下とも薄手の下着だけという、彼からすればもはや正気を疑う格好となった幼児がとたとたと駆け寄ってくる。
背中まである紺色の髪を後ろで束ねた姿で、幼児は自分よりずっと高い男と視線をあわせる。髪と同じ色の瞳が冬の弱い陽光をうけ、一瞬青紫晶の色にきらめいた。
「もう帰ろ」
幼児特有の突然の気まぐれ。
だがその瞬間、クラウスは神の声を聴いた巫女もかくやの心境になった。
その言葉をこそ、ずっと待っていたのだ。
「お帰りですね、分かりました。では、馬をつないだところまでまいりましょう」
「あ、なんかクラウス嬉しそうになった」
当然である。
「クラウスも、馬に乗るの好きなんだね!」
「……ええ」
こういう美しい誤解は解かぬが花というものだ。
それにまあ、乗馬が嫌いではないのは本当のことだし、なにより迂闊な返事をして前言を撤回されてはたまらない。
「——っと、その前に」
がっし、とまた離れようとしていた幼児の襟首を素早くつかむ。
この悪童は本当に、全くもってじっとしていない。
これで名前が「思慮深き者」を意味するというのだから、名が体を表さぬことはなはだしい限りである。
「どこへ行くんですか。ちゃんと服を着てください」
「えー、だいじょぶだよ、まだあっついもん」
「なら『あっつい』うちに着てください!」
重ねて強く促すと、だってあついんだってば、と先ほどまで数限りなく聞いた言い訳をぶつぶつと呟きながらも、幼児はそれ以上の抵抗はせず、おとなしく服を着はじめた。と、
「ふぃっくしょん!」
「ほら見なさい」
盛大なくしゃみを弾けさせた幼児に、間髪をいれずクラウスの突っこみが入る。
途端に幼児はじとっとこのうるさい大人を睨み、唇を尖らせた。
「さっき急につめたくなったの」
「……いいから着てください。手伝いますから」
傍に屈んで、クラウスは幼児が服を着るのを手伝ってやる。
その憎まれ口にこれ以上取りあう気がなかったというのもあるし、ただの感覚だが本当に冷えてきたという危機感もあった。
降りはじめが近いかもしれない。
幼児のためにも、早く帰ったほうがいい。
最初のコメントを投稿しよう!