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「あ、着たらちゃんと前を閉じてくださいといつも——、……?」
突っ立ったままの幼児に少し苛立ちつつもその上着の襟に手をかけたところで、クラウスは幼児の瞳がどこか一点を見つめていることに気づき、言葉を飲みこんだ。
幼児の視線を追って、自分もそちらに顔を向ける。
少し離れた草原に羊の群れが見え、ホォウ、ホォウ、という声とともに、その羊たちをふたりの羊飼いが追いたてていた。
牧場へ帰るのだろう。
羊飼いは父子らしく、他愛のない会話をはさみながら羊たちを誘導していく。
父さん、そっちお願い。
おう、わかった。
あ、ねえねえ、ぼくの靴さ、ほらここ、穴あいちゃった。
はは、見事にあいちまったなぁ、帰ったらなおしてやるよ。
冷たく澄んだ空気にのって聞こえてくる暖かなやりとりを、幼児は何を言うでもなく、ただじっと見つめている。
うらやましい、でもなく、さみしい、でもなく。
あえて言うとすれば、——悟り、だった。
それがけして自分には起こりえないということを識っている、ただ静かなまなざし。
沈黙に耐えきれなくなったのは、大人のほうだった。
「——あの、」
「ん」
ふっと意識が戻ったかのように、幼児は男へと視線を戻す。
「ごめん、なんか言ってた?」
「あ、ああ、その……」
記憶の引出しをひっくり返し、クラウスは先刻かけた言葉を思い出す。
幼児にとっては親でも、きょうだいでも、まして血縁でもなんでもない、ただ役目で傍にいるだけの男と遊ぶのが「普通」の時間へと戻す言葉。
「……あ、そうそう」
自分には、親も、きょうだいもいないのだと——そんな現実を直視しなくてもよい、「普通」の時間へと戻す、言葉。
「上着の前は、ちゃんと閉じてください」
魔法の呪文をどうにか繰り返したクラウスに、幼児は「ん」と頷く。
が、そのちいさな手の動きはいかにもたどたどしい。早くも手がかじかんできたのかもしれない。
だから脱ぐなと言ったのに、とこれは心の中で説教しつつ、結局幼児の身支度のほとんどを行い、最後にその上着の襟もとを直すとクラウスは立ち上がった。
幼児の赤みのさした手を握り(親愛の表現ではなく逃亡阻止のため)、ここへ来たときに馬をつないでおいた木をめざして歩き出す。
……そして、気づく。
静かすぎる。
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