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第一話 落としもの
ある夜、仕事帰りに自宅近くのゴミすて場で、文緒は財布をひろった。革製の長財布で、色は無個性のブラウン。まだ新品だ。すてたというより、誰かが落とした、あるいは置き忘れたかのように見えた。
もしかしたら、ひったくりにでもやられて、中身だけぬきとられたあと、ここにすてられたのかもしれない。
そう思い、文緒はなにげなく財布を手にとった。
たとえばカバンなど、ほかのものなら怪しんで、ふれなかったかもしれないが、人間、どうしても財布だけは見すごすことができない。
まわりには人通りもない。
それで、なんとなく手にとり、なかをあらためた。
すると、中身が入っている。カード類はもちろん、札がある。それも、ぱっと見でも十五、六万。
くどいようだが、あたりに人目はない。
ゴミすて場の近くには街灯があるが、電球が切れているのか、今夜はついていない。したがって、周囲の住宅のなかからも、文緒の姿を見ることはできないだろう。
警察にとどけよう——
最初はそう思った。
しかし、給料日前文緒の財布の中身はさみしい。おまけに、先月、友人から借りた飲み代を返せと、うるさく言われている。
(こんなとこに、うっかり忘れてくやつが悪いんだよ)
文緒は周囲を見まわし、すばやく札を数枚ぬきとった。
数枚だから問題ないと思った。きっと朝には誰かがひろって警察にとどけるか、文緒のように、こっそり中身を処分するかだ。自分の罪にはならないだろうと。
五万の臨時収入があったため、借りていた金も返せた。
給料日までのゆとりもできた。
(おれって、超ラッキー)
喜んでいたのだが……。
その日も夜になって家路についていると、同じゴミすて場で、あの財布を見つけた。昨日はカラスよけのケージの上に、そのまま置かれていたが、今日はケージとコンクリート塀のすきまから半分、顔を出している。
ウソだろ。誰も届けなかったのかよ?
みんな、見て見ぬふりをしたというわけか。
あきれつつも、文緒はまわりを見ていた。人はいない。ちょっと気になってひろってみた。
気になったのは、とうぜん、財布のなかだ。あけてみると、おどろいたことに、昨日と同じくらい入っている。文緒が五万ぬいたあとの残り十万。端数の千円札なども、そのまま入っているようだ。
もしかしたら、見て見ぬふりをしたのではなく、誰もこの財布に気がつかなかったのかもしれない。
そのとき、通りのむこうから足音が聞こえてきた。
文緒はあわてて財布をポケットに入れると、速足で歩きだした。
自宅のアパートに帰ると、胸が異様にドキドキしていた。盗んでしまったという罪悪感が、とつぜん、あふれてきた。昨日はなかの札数枚だが、今日は現物をまるごと持ってきたことが、その気持ちを強めていた。
しかし、今さら返しに行く気にもなれない。
丸一日、あの場所に放置されていたということは、持ちぬしもあそこに置いてきたことをおぼえていないのだ。
盗んだわけじゃない。ひろっただけ。おれはなんにも悪くない。
そう自分に言い聞かせ、文緒は財布をポケットから出した。
とにかく、札だけぬいて、あとはすてよう。
そう考えながら、財布に指をつっこんだ。一万円札も五千円札も千円札も、全部まとめて指にはさむ。
札をぬきとったときだ。
すっと持ちあげた紙幣に、何かがくっついてきた。
(なんだ? コレ?)
紙幣を目の高さにまで持っていくと、ズルズルと、黒いヒモのようなものが、札につながって財布から出てくる。
ズルズル。
ズルズル。
じっと見つめていた文緒は、急に気づいて「うわッ」と悲鳴をあげた。
髪の毛だ。
長い黒髪が紙幣にからみついている。
悲鳴をあげると同時に、文緒は財布をほうりなげていた。床に落ちた財布から、さらに大量の髪が、バサッとあふれる。その量は人間一人ぶんの頭髪くらいはある。
ふるえがついて、しばらく文緒は腰をぬかしていた。
ようやく気をとりなおしたあと、急いで床に落ちた財布と札と髪の毛を、ひとまとめにしてゴミ袋に入れた。
裸足のまま夜の町を走り、さっきのゴミすて場に来ると、ポイと袋をなげすて、あとも見ずに逃げ去る。
(なんだったんだ? アレ? だって、あの量の髪の毛が入ってるような厚みじゃなかったぞ。どっから出てきたんだ……)
恐ろしかったが、つとめて考えないことにした。
ところが、その翌日だ。
会社の昼休み、外食のために外に出たとき、背後から声をかけられた。
「あの——」
ふりかえると男が立っていた。
ごくふつうの若い男。ビル街なのに、黒いジャージの上下を着ている。それが奇妙と言えば奇妙だが。
「はい?」
「これ、落としましたよ」
男は文緒の手に何かを押しつけて去っていった。よく見ると、あの財布だ。
なんでこの財布が? 昨日、たしかにすてたのに!
文緒は冷や汗をかきながら、近くのコンビニのゴミ箱に財布をなげいれた。
すると、会社帰り。
「これ、落としましたよ」
背中から声をかけられる。
その声を聞いて、文緒はゾッとした。あの男だ。まちがいない。昼間のあのジャージの男……。
ふりむくと、やはり、あの男だった。手に例の財布を持って、さしだしている。
違うのは、昼間に見たときより、なんとなく顔がゆがんで見えたこと。黒い薄い膜のような影が、顔ぜんたいをおおっている。
「わあッ」と叫んで、文緒は逃げた。
アパートに帰り、カギをとりだそうとしたときだ。ポケットから、バサリと財布がこぼれおちた。
*
文緒は考える。
自分の将来には三つの選択があると。
一つは、あきらめて財布を自分のものにする。こうすれば、あの薄気味悪い男からは逃れられる。
ただし、夜な夜な、大量の髪の毛が財布から這いだし、畳の上を蛇のようにのたうちまわる。
二つめは、できるだけ遠くに財布をすてる。すて続ける。手元にないうちは髪の毛には悩まされない。
しかし、だんだん姿が闇のように溶けてくる変な男に追いまわされる。何度すてても。どこへ、すてても。
三つめ……。
命をすてて、らくになる。
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