わが身世にふる、ながめせしまに

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 彼と付き合い始めたのは、就職してすぐの頃だった。  高校時代のクラスメイトだった。それ以上でも以下でもない。連絡先も知らず特に話した覚えもないほどで、地元を離れ大学に進学した後は彼のことを思い出すこともなかった。ところが、4年の時を経て街中ですれ違ったのをきっかけに、たびたびふたりで会うようになった。  それから1年が過ぎ、「高校ん時お前のこと好きだったんだ」と彼は言った。続けて、「ていうか、今も」とも。  それまではなんとも思っていなかったものの、偶然の再会と彼の言葉がやたらドラマチックなもののように思えてしまったことは、無理からぬことだったと思う。  それからさらに1年して、「家賃がもったいないから」とふたりで一緒に住むようになった。そのままの関係で、もう4年になる。   ■  土曜日の朝。土日休みのわたしと違い、休みが不定期な彼は出勤の準備をしている。 「おれ、今夜は職場の飲み会だから遅くなる」 「あ、うん。わたしも大学の後輩と飲みに行くから遅くなるかも」 「そう、わかった」  いつからか、必要なこと以外、会話はほとんどなくなった。お互い、もともとあまりしゃべる方ではなかったものの、以前はその沈黙も心地よいものだった。  休日が合わず、どちらかの帰りが遅くなれば夕食も別々になるので、ふたりで過ごす時間も減り、すれ違うことが多くなった。特にここ1年の彼は、土日祝日が休みだったことはほとんどなかった。  彼を見送って、玄関の鍵をかける。このところ雨の日が多く、アパートの玄関から見えた空は、今日も厚い雲の灰色に覆われていた。   ■  雪のように、灰のように、はらはらと時間は降りつもってゆく。  降りつもったそれは、くすんだ灰色をしている。ところどころ鮮やかな色がのぞいており、それは学生時代や彼と付き合い始めたころのことを思い起こさせる。しかしその鮮やかさも、今や灰色のそれに覆いつくされようとしている。  このままでわたしは、後悔しないだろうか。   ■ 「わたしたち、結婚することになりました」  大学時代の一つ下の後輩と、いつものチェーンの居酒屋で。普段より少しだけ神妙な面持ちで、彼女は言った。 「おめでとう。そっか、ついに……やっと? 付き合って何年だっけ?」 「9年です。大学1年のときからなので。……本当は、先輩には2人で報告したかったんです。お世話になったので」  もともとの約束では、今日は3人の予定だった。ところが、後輩の彼氏の方は仕事が忙しく休日出勤になったとのことで、来ることができなかった。  彼女はそれが不満らしい。流れるように彼への愚痴を並べていく。  結婚を決めたばかりなのに、こんな調子で大丈夫なのかと思うものの、この後輩カップルはいつもこんな感じだった。けんかも多かった。そもそも、この後輩たちと話すようになったのも、けんかの仲裁がきっかけだった。 「先輩、次なに飲みます?」  彼女は彼への不満を吐き出して、満足した様子で1杯目のレモンサワーを空けている。そして、テーブルに設置されているセルフオーダー用のタブレットを操作して、迷うことなくサングリアを選択する。 「なにか一緒に注文します?」 「あー……えーっと、じゃあそれ2つにして」 「はーい。そう言うと思いました」  いつもとっさに決めることができないわたしは、迷ったときは誰かの注文に乗っかることにしている。後輩も慣れたもので、わたしの答えを最後まで聞く前に個数を『2』に変更している。 「ありがと」 「それより、聞いてくださいよ」  そう言って彼女は、今度は職場の不満を並べ立てる。店員がサングリアを持ってきたときも、それは止まることはなかった。  後輩の人差し指がテーブルの縁をトントンと叩いている。酔っているときの癖だ。店員が通路を足早に通り抜けていく。飲みかけのサングリアの赤が、グラスの中できらきらと揺れている。  周囲の結婚を、純粋な気持ちで祝えなくなったのはいつの頃からだっただろう。  祝う気持ちはもちろんある。ただ、それとは別に、『それで、わたしは?』と思わずにはいられなくなった。  彼は結婚についてなにも言わない。先のことをどう考えているのか、わたしにはわからない。それを彼に問う勇気も、わたしは持ち合わせていなかった。   ■  日曜日。朝からさあさあと雨が降っている。彼は仕事のため、今日も一人の休日だ。  掃除でもしようかと立ち上がろうとしたとき、手の中のスマートフォンが鳴った。姉からの電話だった。 『久しぶり、元気?』 「うん、元気だよ。そっちは? 今どこにいるの?」 『元気元気。今は沖縄』  姉とは7つ年が離れている。フリーのライターであり旅行が趣味の姉は、趣味と実益を兼ねて主に旅行関係の記事を書いている。実家に住んでいることになっているものの離れていることの方が多く、どうやらここ最近はずっと沖縄にいるらしい。 『それでね、久しぶりにポストカードを送ろうかと思ったんだけど、今の住所がわかんなくなっちゃって』  わたしが実家にいたころは、よくポストカードを送ってきていた。いつも『〇〇にいます。元気です。』とだけ書き添えて。 『それともうひとつ』 「うん?」 『結婚することにしたから』 「え?」  思わず聞き返してしまう。 「あー……えっと、おめでとう。どうしたの急に」  姉は結婚に興味がないものと思っていた。 『ここで先月知り合った人に、プロポーズされたから。彼も旅好きだしね』  先月って。 『……ほんとは一度断ったんだけど、”試しに一度結婚してみてはどうか”って彼が言うから。  ”結婚は女の幸せ”とはわたしは思わないけど、まぁ、わたしにとっての幸せかどうか、一度くらい結婚してみてもいいかと思って』 「沖縄の人?」 『ううん、大阪の人』  姉も変わり者だと思うけれど、どうやら相手もかなり変わった人のようだ。なんだか突っ込みどころが満載のような気もするけれど、当人同士がいいのであればそれでいいか、という気もする。  一度だけ、姉とふたりだけで旅行をしたことがある。わたしが中学生になったばかりの年だった。  あれも沖縄だった。  あの頃は、活動的で物怖じしない姉に憧れていた。だからわたしも、姉のように旅をしてみたかった。ただ、この旅でわたしは悟ってしまった。行く先々で出会う人々と積極的にコミュニケーションを取り、イレギュラーをものともしない姉を見ているうちに、『わたしはたぶん、こうはなれない』と。  未だになにをするにも迷ってばかりのわたしとは違い、姉はわたしには到底選ぶことができない選択をしてきた。仕事だってそうだ。大したスキルも自信も持ち合わせていないわたしは、フリーランスなど想像もできない。  わたしは姉のようにはなれない。思い切った決断を下すことができない。  姉からの電話を切ってから、今度こそ掃除をしようと立ち上がり、とりあえず窓を開けてみる。風はなく、弱い雨は窓から入ってくることはない。  掃除は他にしなければならないことがあるときが最もはかどるけれど、考え事があるときも負けていないと思う。  わたしはガスコンロを磨きながら、姉の『わたしにとっての幸せかどうか、一度くらい結婚してみてもいいかと思って』という言葉を思い返す。  それで、わたしは?   結婚するにしてもしないにしても、この穏やかで乾いた日々の先に、わたしにとっての幸せはあるだろうか。  姉の電話から数日後、ポストカードが届いた。  差出人は姉だが、その住所は大阪の知らない街だった。そこにメッセージが一言、『しばらく大阪にいます。』と添えられていた。  くるりと裏返す。沖縄の海の写真だった。   ■  雪のように、灰のように、はらはらと時間は降りつもってゆく。  臆病者のわたしは、仕事や日々のあれこれで手一杯のふりをして、この日々の先に待っているものを、見ないようにしていた。  そうしているうちに、選択肢は次第に減ってゆく。決断を迫られたときには、ろくな選択肢が残っていない。いつもそうだ。後悔するとわかっていても、決断することは勇気が必要であり気力を消耗する。なにも選ばず、あるいは”現状維持”という選択をし続けて、ただ時間が降りつもるのをながめているのは楽なのだ。  どうすべきか、ほんとうはわかっていたはず。   ■  土曜日の朝。彼も休みらしく、ふたりそろっての休日は久しぶりだ。にもかかわらず、彼はひとりで出掛ける準備をしている。 「ちょっと待って、話があるんだけど」  出掛けようとする彼を呼び止める。 「もう出るから、帰ってきてからにしてくれない?」  彼はこちらを向きもしない。 「すぐ済むから」  別れるのなら、わたしはここを出ていくことになる。引越先を探さなければ。  どこがいいだろう。いっそのこと仕事も辞めてしまおうか。 「……わかった、何?」  彼は煩わしそうに振り返る。  姉にも会いに行こう。旅立たずに待っていてくれるか、という問題はあるけれど。  幸い貯金はある。結婚資金のつもりだったのだけれど。 「うん……あのね――」  そう、南の方の、海沿いの町なんかいいかもしれない。  話を切り出しながらわたしは、いつか姉と並んで見た、どこまでも続く海の碧を思い出していた。
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