鈴波 華乃子 三十八歳

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鈴波 華乃子 三十八歳

 16時45分。  平日この時間になると、華乃子(かのこ)はほとんど無意識にテレビのリモコンを手に取り、電源を入れる。華乃子がテレビを見たいわけではない。いつもテレビを見るのは娘の由凪(ゆな)で、17時から由凪の大好きなアニメがはじまるからだ。少し早い時間からつけるのは、アニメの前に放送されている情報番組を見るためだ。旬のお笑い芸人とアナウンサーが司会を務める情報番組で、番組の終盤に「日本の珍しい」というテーマのコーナーがある。視聴者の情報をもとに、番組のリポーターが全国に飛び回り取材に行くというものだ。もちろん十一歳になる娘がそんな情報番組に興味があるわけではなかったが、そのコーナーではいつも、由凪の大好きなアニメのキャラクターが画面上に登場し、リポーターと掛け合いをしながら内容が進む。そしてそのまま「あとはよろしくねー」と言ってアニメに繋がっていく。由凪はいつもそれを見ては、「おもしろいね」「ふしぎだね」と言いながらテレビ画面に夢中になっていた。  だけれど、こうして日課のようにテレビをつけても、「はじまった?」と嬉しそうに弾ませた声も、床をペタペタと鳴らす軽快な足音も、聞こえてくることはない。ただ、この部屋のどこかできっと見ているにちがいないと、空虚な願いに思いを馳せるしかなかった。由凪を事故で亡くして一年たった今でも、華乃子はテレビをつけるたびに、いまだに現実を受け入れられない自分を責めた。  当時ニュースでも大きく取り上げられた車の多重事故。由凪は飼っていた子犬の散歩中にその事故に巻き込まれた。「もうおねえさんだからひとりで散歩に行きたい」、そう何度も懇願する由凪に、由凪の三歳下の弟と共に華乃子は玄関先から見送った。そしてその十数分後、家に帰ってきたのは子犬だけだった。異常なほど玄関先で吠え続ける犬の鳴き声に気が付いて慌てて外に出ると、そこには下半身を引きずるようにしながら血だらけになった子犬が変わり果てた姿でいた。次第に薄れていく犬の鳴き声と、けたたましく鳴り響くサイレンの音が、今でも華乃子の脳裏に貼りついて剥がれないでいる。  「ねえねえミチコお姉さん。今日はどこへ行くの?」  電源の入ったテレビ画面から、由凪が大好きだったアニメのキャラクターの声がリポーターに向かって投げかけられる。 「はーい。今日はこちらで農家を営んでいる加美越(かみごえ)夫妻のご自宅にお邪魔しています。こちらのお庭では非常に珍しい植物を育てているそうですよ。見てください、こちらです。シジャホウランという植物で、なんでも数百年に一度しか花を咲かせないだとか。それも一晩だけ。日が沈んでから日が昇るまでの数時間だけ咲いて、すぐに枯れてしまうのだそうです。そんなことから、幸福の花、奇跡の花と呼ばれているのだそうですよ。そしてこのシジャホウラン、日本の気候では開花は不可能と言われています。賀美越さんはなんと40年前に友人から譲り受けたものなんだそうです。今日はこのシジャホウラン、日本にあるだけでも非常に珍しいので、す、が。それだけでわたしはここへ来たりしません。実は、見てくださいこれ、わかりますか? なんと一ヵ月ほど前から花茎が伸びはじめたのだそうですよ!」 「わあ! ミチコお姉さん。もしかして花が咲いちゃうの?」 「そうなんです! ただ、まだ可能性があるというだけなので、このわたし、是非とも咲くまで今後も追って──」  突然家のチャイムが鳴って、華乃子は由凪の幻影を見失った。重い腰を上げ、玄関まで行き戸を開けると、そこには見覚えのない男が一人立っていた。二十代後半くらいだろうか。 「あの、どちらさまで?」  華乃子は勘繰りながら男に声を掛けた。 「あの……。と、突然すみません。わたし日野垣 修也(ひのがき しゅうや)と申します。え、と。鈴波(すずなみ)さんのお宅でしょうか?」 「はい、そうですが」  男は目を泳がせ、緊張なのか動揺なのかどちらにせよ落ち着きのないその様子に、華乃子は無意識に体をこわばらせた。息継ぎをするように男は時折視線を合わせ、言葉を吐き出そうとする仕草をみせた。 「あの、突然、す、すみません。由凪さんのことで……」  華乃子はあからさまに表情を歪ませた。突然見知らぬ男が発した娘の名前に咄嗟に口を開いたが、言葉だけが喉の奥につかえてかすれた吐息だけが漏れた。男は華乃子のそんな表情に気が付いたのか、慌てた様子で姿勢を正すと深く頭を下げた。そして頭を下げたまま、先ほどとは打って変わってはっきりとした口調で、ひとつひとつ丁寧に言葉を繋いだ。 「突然ほんとうに申し訳ありません。わたしは、由凪さんからの言葉を伝えに来ました。頭がおかしいと思われるかもしれません。わたしにもなぜ突然由凪さんの声が聞こえたのかもわかりません。うまく説明できませんが伝える必要があると思い……、いや、ただの自己満足かもしれません。それでも、それでも少しだけお時間もらえないでしょうか」  男はそう言うと、変わらず頭を下げたまま微かに体を震わせ、華乃子の返事を待っている。 「な、何なんですかあなた……。突然家に来て、勝手に娘の名前を出して。あなた何なんですか!」  華乃子は取り乱し声を張り上げた。娘の声を聞いた? 娘の言葉を伝えに来た? まったく理解のできない内容に、混乱よりも怒りが沸き上がった。娘を失って、毎日のように苦しみ、毎晩涙をながし、自分自身を責め続けてきた。なぜあの時一人で行かせた。なぜついて行かなかった。一年たった今でも由凪の幻影にむかって謝り続け、由凪が睨みつける夢さえも見た。それなのに突然、見知らぬ男が由凪の声を聞いたと現れたのだ。 「何が目的なんですか? 嫌がらせですか? 出てってください! 警察呼びますよ! 出ていって!」  男は「申し訳ありません」と小さくこぼすと、華乃子と目を合わせることなく踵を返した。 「ママどうしたの……?」  リビングから小さな男の子が、片方の目を擦りながら華乃子の側へ寄ってきた。 「ううん、大丈夫。何でもないから」  男がぴたりと足を止め、華乃子に向かってゆっくりと振り返った。 「あ、あの。弟のこうた君に。野菜を小さくつぶして食べさせてやってほしいと……。そうすればちゃんと食べるからって。すみません、失礼します」  男はそれだけ言うと再び踵を返して歩きはじめた。  華乃子は男の言葉に息を飲んだ。なぜそのことを知っている? どうして?  こうたは野菜嫌いでいつもよけて食べていた。それを由凪がいつだって隣でスプーンの裏を使って潰したり、丁寧に小さく刻んだりしてご飯に混ぜて食べさせてやっていたのだ。華乃子は裸足のまま玄関を飛び出し男の背中に向かって叫んだ。 「待って! お願い待って!」  華乃子の声に男は足を止めた。 「ほかには、……ほかには何か言っていましたか」  振り返った男の顔は涙で溢れ、まるで子供のように嗚咽していた。そして男は必死にその口を開いた。 「ま、また……。わ、わたしの、ママになってね」  華乃子はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。声をあげ、嗚咽し、涙を流し続けた。 何度も、何度も。ごめんねとありがとうを繰り返しながら泣き続けた。
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