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母と喧嘩した。
足早に家を出て、逃げるようにバイトに向かう。
先日の大雪で地面が真っ白に染められた上り坂を進む。
なんで、私だって頑張ってるのに。
雪に片足ずつ落とした跡を見ながら、進む。
と、ひゅお〜と北風が吹き、視界が白に奪われた。
吹雪が顔のまわりを駆け抜ける。片目を閉じ、手を顔の前に翳す。
数秒後、風が空けた。目の前に広がる雪原。その中に立つ何本もの木々。
周囲を見渡す。上っていたはずの坂道は消え失せ、辺りには雪の森林が広がっていた。
「え……?」
見渡せど見渡せど雪の世界に際限はなく、まるでおとぎ話の世界に入ったかのように、どこまでも目映い白い世界が続いていた。さっきまで見えていたはずのレストランの看板も駅も郵便ポストも見えない。
「どうしよう……」
束の間の時間を置いて、恐怖が指先に悴んだ。とりあえず戻ろうとくるりと振り返り走り出す。
顔のまわりを流れる雪風の中を走る。
と、何かにぶつかった。
クッションのような弾力に弾かれ雪の上に尻餅をつく。
「ご、ごめんなさい……」
顔を上げると、ふわふわとしたわたあめのような白い物体が目の前に浮かんでいた。
雪にでもぶつかったのか、と腰を浮かせようとすると、「まさか人がいると思っていなかったから、ごめんなさい。大丈夫?」とほにゃっとした声が聞こえた。周囲を見渡してみるが、近くに人影はない。気のせいか、と首を軽く振ると、腕にふわっとしたものが触れた。目の前のふわふわとしたわたあめのような白い物体から伸びた部分が、手のように変形し、私の腕を掴んでいる。
「ひゃあっ!」
悲鳴が飛び出た。と同時に、感じたことのない恐怖を帯びたような驚きで、腕が震える。
「大丈夫。怖がらないで。」
途端、何故だか安心するような穏やかな優しさで身体が包まれる。私を、ふわふわとしたわたあめのような白い物体が包み込んでいた。
「驚かせてごめんね。僕はゆきのわたあめの精だよ。」
イレギュラーな状況に、普通なら自分の身を守ることを考えなければならないのだろうけど、私の口から出て来たのはこんな言葉だった。
「ゆきの…わたあめ……?」
「うん、心が疲れちゃっている人を癒やすのが僕の役割だよ。」
「心が…疲れてる……?」
「うん。萌結(ほゆ)ちゃん、疲れてるよね。就活とか、大学とか、家事とか。萌結(ほゆ)ちゃんの心が、叫んでいるのが聞こえたんだ。」
「何で……」
名前を知っているということよりも、私の心の状況を分かっているということに、心がほろほろと瓦解していく。誰も分かってなんかくれなかったのに。誰も認めてくれなかったのに。
「どうして……」
吐き出すかのように、自ずと涙が零れた。ほろほろと落ちていく涙が、ゆきのわたあめの精の手の中に吸い込まれていく。
「萌結(ほゆ)ちゃんはちゃんと頑張ってるよ。大丈夫。」
吸い込まれた涙が、ゆきのわたあめの精の手の円の中で雪の綿と共にくるりふるりと回っている。
やがて、ゆきのわたあめの精の手の中から、ふわふわの綿雪のようなかたまりが、ぽおん、と低く浮かび上がった。
「はい、ゆきのわたあめだよ。どうぞ。」
漂ってきたそれを受け取り、軽く口にする。
ほどよく甘く、しっとりとした食感。
緩やかで、穏やかで、温かで優しい、どこか安心するような感覚。
心がほろほろと溶けていく。
「それを全部食べたら、萌結(ほゆ)ちゃんは大丈夫だよ。」
ゆきのわたあめの精の声を聞きながら、ゆきのわたあめを口にしていく。
やがて、最後のひと口を食べ終えると、ふと身体が軽くなった。
顔を上げる。
目の前に、坂道が続いていた。
「えっ……?」
振り返る。辺りを見渡す。レストランの看板、駅、郵便ポスト。いつもの街並みが広がっている。
「ゆきのわたあめさん……?」
声に出してみる。返事は聞こえない。と、左手に柔らかい感触があった。左手を見る。開いた手のひらの上に、白いふわふわとした毛玉が乗っかっていた。ー水透明の留め具が付いた。
「そっか」
ひとりでに呟く。腕時計を見る。さっきより15分ほど時が進んでいた。少し走れば、まだ間に合う。鞄にゆきのわたあめを付ける。
「急がなくちゃ。」
坂を蹴って駆け出す。心が、空に浮き上がり、軽くなっていた。
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