ココア

1/2
前へ
/2ページ
次へ
 入社当時の俺は、彼女に爪の先ほどの興味も抱かなかった。  同僚である彼女は、少しぽっちゃりとしている見た目通り、鈍臭くて、ミスもしばしば。 とにかく要領が悪い。頭の回転も遅い。でも、どれだけ怒られても言い訳はひとつもしなかったし、人前で涙は流さなかった。  しかしそんな彼女の涙を一度だけ見たことがある。  夜のオフィス、忘れ物を取りに戻ったら、彼女が一人開いたままのパソコンの前で泣いていた。 誰もいないオフィスは静まりかえっていて、その中でズズズっと、鼻を啜る音だけが響いていた。  やがて彼女は袖で涙を拭い、懸命にボードを叩き始める。  話しかけたら気を遣わせるだろうか。仕事の邪魔になるだろうか。 でも、何か一言ーー。 声をかけようと右足を踏み出したとき、ポケットが震えた。 手を突っ込み、震えの止んだスマホをとりだす。差出人は友人で、恋人の惚気と言う名の愚痴が綴られていた。 俺は返事もせずにスマホを右のポケットに戻すと、足を進める。 「お疲れ様」  軽く挨拶をすると、彼女の肩がびくりと震え、こちらを向いた。 すると瞬く間にそう大きくはない瞳が瞬いた。 「え? そ、園山くん? お、お疲れ様です……」  一体なぜ吃るのだろうか? 不思議に思いながら、労いの言葉をかけた。 「もう20時だよ。仕事、まだ終わりそうにないの?」 「あ、うん……明日の会議に使う資料、一昨年の数字のところに昨年の数字入れちゃって。一から資料見て数字入れ直してたの」  彼女の言葉を聞きながら、缶コーヒーでも買ってあげればよかったな、とぼんやり思った。 頬には涙の痕が滲んでいて痛々しい。  「手伝おうか?」 「う、ううん! 大丈夫! あとは確認作業だけだから……ありがとう、園山くん」  柔らかく笑った。  愚痴も零さず、ただいつも目の前の作業を必死にこなしているのを知っている。 彼女は同期であり同僚だ。他の同期から情報が入ってくるし、何より俺の前の席で仕事をしているから、いつも真剣な目でパソコンと睨めっこをしているのを見ていた。  本当に真面目で、頑張り屋で、いつか潰れてしまわないか心配だな、と思う。 「園山くんはどうしたの?」 「ああ、忘れ物をしてしまって」  自分のディスクの引き出しを開け、お目当てのものを取り出し、鞄の中へと閉まった。 「羽海野さんは、苦手な飲み物とかある?」 「え? えと、苦いのが苦手だからコーヒーとか、抹茶とかはあんまり飲まないかな?」  質問の意図がわからないのだろう。首を傾げながら答えた。 勘のいい人ならばすぐに気づきそうなものだけれど。やはり彼女は想像していた通り、鈍い。 「そ。わかった」  踵を返し、出入り口に向かう。 後ろからお疲れ様、という可愛らしい声音がしたが、それには答えず、近くにある自販機に向かった。 ーーコーヒーを買わなくて良かったな。買うのは……そうだな、温かいココアにしよう。  オフィスに戻ると、また彼女は肩をビクリと揺らし、瞳を瞬かせた。 先程と全く同じ反応だったことがおかしくて、小さく笑った。  彼女の隣に立ち、そっと差し出す。 「はい、ココア」 「え……?」  俺の手に握られているあたたかいココアを凝視し、その後またしても目を瞬かせた。 彼女の癖なのだろうか? なぜか可愛らしく見えて口が綻ぶ。 「あ、ありがとう!」  ふんわりと柔らかく笑った。 これも癖なのか、首をほんの少し傾げながら、百円ほどしかしないココアを握りしめ、とても嬉しそうに笑った。 一瞬、胸の奥がモゾモゾとし、ほんのり心の奥に光が灯った気がした。 「あとどれくらいかかりそう?」 「え? えーと、十五分くらいかな?」 「わかった。待ってるから送っていくよ」 「え!? だ、大丈夫! 大丈夫だよ! 一人で帰れるよ!」  小さな手の平をこちらに向け、ぶんぶんと左右に振った。あまりに大きな動きにぷっと吹き出す。  かわいい。口に出しかけてやめた。   今まで、同期同士の飲み会で近くの席になったことはあった。 けれどほとんど会話はなかったし、彼女をに視線を送ることもほとんどなかった。 そのことを少しだけ後悔した。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!

16人が本棚に入れています
本棚に追加